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京都の先輩の話

福岡から、京都の大学に来た私をあたたかく迎えてくれたものは、たくさんある。まず逆の意味から言えば、田舎者の私を騙すような輩に出会うことがなかったのは幸いであった。そのうち、学生を大事にする京都の風土があるのもよく分かった。大学に紹介してもらったアパートは、自炊ができるという条件で探した、古いもので、その分家賃もいくらか抑えられていたが、私には決して安くはなかった。一か月の食費は、家賃の半分で賄った。親に迷惑をかけている意識が強かったので、毎月必ず収支を報告した。当時はもちろん、書簡である。
 
大家さんが、若い私を実に丁寧に扱ってくれた。こんな私に何をどう感じたのか分からないが、息子さんの家庭教師の話をもちかけてくれたのは、驚きだった。週に2度、2時間程度という常識的な範囲ではあったが、ちょうど家賃分だけを謝礼として出してくれた。
 
大家さんは、駅前に、喫茶店を経営していた。そこへ行けば、ブレンドコーヒーはいつでも自由に飲めるという身分にもなった。店は、雇った若い女性がひとりで働いていた。カウンターに私はいつも座り、コーヒーを出してもらい、よく話をした。一度だけ、その女性と、節分会に出かけたことがある。元々京都のひとではなかったため、京都について調べた私のほうが、その催しのことや京都の歴史について話していたように思う。偉そうに聞こえたかもしれない。何年かして、彼女が結婚して郷土に帰ってからは、喫茶店に行くことは殆どなくなった。コーヒーは、高校の時から自分で淹れていたので、あれほど同じ店で飲んでいたということは、なかったはずだ。
 
大学の哲学研究室へは、最初のうちは講義の関係上、それほど立ち寄る機会がなかったが、そこへ行けば誰彼と哲学について教えてもらえたので、居心地はよかった。高齢の教授はさほどそこで時間を潰す暇はなかったが、若い講師は時折姿を見せた。実に頭の切れる人で、ドイツに留学した経験もあり、将来が嘱望されていた。が、何よりも研究室にいつもいたのは、院生である。博士課程となると、もう教授だと紹介されても信じてしまうくらい貫禄のある人もいた。30代というのが当たり前のような世界だった。
 
その中で、気立てのいい人がいて、私をよく可愛がってくれた。穏やかで遠慮がちだった私と、話が合うと思ったのかもしれない。また、哲学に対してピュアな気持ちで向かっていた私に、自分と何か通ずるものを感じたのかもしれない。その人は、プラトンの原書をじっくり読み続けていたのだった。
 
青森から出てきて、ある店の2階に住んでいた。いわば夜警という立場で、給与をもらっていたらしい。それほど高くはなかったはずで、質素な暮らしをしていた。そこにも誘ってくださり、一晩中酒を飲みながら話をしたこともあった。酒となれば当時は日本酒だが、私が一升飲んでも話を続けている中で、先輩はすぐに顔を赤くしてへたってしまっていた。
 
自分は、プラトンを細かく読むことしかできない。要領よく、研究書を流し読みして、論文にまとめたなら、出世をするかもしれないが、それは自分のやろうとすることではない。ただプラトンから人生を学びたいのだ。そんなことを私に話してくれた。それは、確かに私の思うことと、遠くないものだった。だからこそ、私を選んだのかもしれない。
 
結局その人は、博士論文をつくりあげることはなく、ぎりぎり限界まで大学に残った後、青森に帰って行った。向こうでは、小さな塾を開き、子どもたちに勉強を教えていた。私には幾度も手紙をくれた。時に、新聞の投書で、教育行政についての「なっちゃいない」話に対する強い反論を書いたと言い、楯突いたその投書のコピーを私に送ってもきた。
 
そのうち、手紙が来なくなった。最初のうちは、そんなこともあろうと思っていたが、音沙汰がないので、私のほうから様子を窺う手紙を送った。しばらくして、先輩の年老いた父親から封書が届いた。脳の症状が出て、突然に亡くなったのだという。私は手紙を握りしめて、泣いた。お返事を結局差し上げることができなかったのは、いまにして思えば失礼だった。哲学について真摯に取り組むことを教えてくれた、優しい先輩とは、再び対話をすることができなくなった。
 
私はまともにギリシア語は読めないが、ギリシア語のもつ深みや思想的な背景については、多くのことを学んだ。ハイデガーは他の学生や先輩たちとも読んだが、ハイデガーのもちだすギリシア語の議論もずいぶんと分かりやすくなった。ただ、そうしたことのためにギリシア語を弄ぶようなことをしていたとしたら、やはりそれは失礼なことに違いなかった。
 
メタピュシカ(形而上学)は、ピュシカ(自然学)のメタ(後)だと呼んだ、アリストテレスの何気ない言葉であったが、人は、単に後に置いたという意味では飽き足らず、メタ(超えた)という意味で捉えるようになった。人類の知の歴史は、この形而上学を、どのように位置づけるか、模索しながら営まれてきた。見えないもの、感覚できないもの、検証できないものについて、人は沈黙するようにすればよい、というのが、論争をなくすに良い方法なのだろうが、人類はそのようには決して進まなかった。
 
私が聖書と出会う前は、形而上のことを、なんとか人の手で根拠づけようとしていた。だが、カントを読む以上は、それは迂闊にできないことを弁えている必要があった。それでも、従来の形而上学を砂上の楼閣のように批判したカントにしても、自身としては、しっかり形而上学を建て上げるつもりでいたのであった。だからカントの批判書は、従来の哲学史の息の根を止め、新たな道を始める基となったとも言える。カント自身は、そう考えていたことだろう。しかし、カントもまた、自分の信念の上にのみ、体系を築こうとしていたことは否めない。
 
聖書を、自分の思い描いたようにのみ、主張する人がいる。自分の信念の上にのみ、体系を築こうとするのだ。それこそが正しいのだ、というその自信については驚くばかりである。形而上学の無為さを哲学史の中で味わう体験をした者にとっては、聖書について、自分がさも真理を悟りきったような言い方をする人を、哀しく見つめるしかない。それよりも、プラトンの中に人生を見出そうとした先輩の無器用な生き方のほうが、よほど謙遜で、真摯であったかというふうに、いま改めて思わされるものである。

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