悲しい思いを綴りながら
会えないひと。人と人との間にどうしても距離を置かなければならなくなったこの1年。行くべきところにもなかなか行けない。けれどもこれは、分断ではなかった。離れてもつながる思いは確かにあった。オリンピック開会式での赤いロープのダンスは、手をつなげなくてもつながる人との関係をも表していた。
リモートでは辛いという場面もある。しかし、リモートでもつながりを感じられるケースもあった。直に人と会うこと、接すること、そこにこそひとは自分を成立させるのだ、といった哲学的な考え方も響くことがあったが、科学が導いたリモートでのアクセスが無意味だったということはないのだと思いたい。
もう会えないひと。今後も会うことができないひと。お別れが、できなかったひと。それは心の疵となって残った。いくら慰めようとも、その人の中では、どうしても残らざるをえないもの。相手に軽くいなされることほど、酷いことはない。その辛さを、ただ受け止めるためにこそ、そばにいるその人はそこに置かれたのだ。
本当に、もう会えないのだろうか。天国というものに希望をもつこともできよう。もしそれを用いなくても、その人はこの心の中にいる。感傷的だと言われるかもしれないが、そして言い尽くされてきた淡いただの期待であるのかもしれないが、思う人がいる限り、あのひとはいなくなるということはないのだ。
突然の災害で、あっという間に別れさせられた場合、去ったほうも無念だろうが、残されたほうも、辛いなどという具合ではないほどに、たまらないだろう。このとき、分断されてしまったのだろうか。そんなふうには、思いたくない。
血のつながりのない、ただの教え子も、夜の闇の中で突然命を奪われた。18年経っても、この程度の接点であっても、私の心からは消えない。それは、犯罪によって分断されることがないという、せめてもの信念に基づくものなのかもしれない。
むしろ分断は、そこかしこにある。自分が正義であるとだけ考え、相手をただ悪とする、その思いが分断を作っている。ふたつの存在者は、互いに相手に影響を与えているはずである。相手が悪なのは、こちらが悪であるからではないのか。観測者は純粋に世界を観測するものと素朴に信じていた近代は遠い過去となった。観測者は、観測される世界に明らかに影響を与えており、その観測は観測者抜きの客観的なものではありえないということが、科学においても、そして恐らく哲学においても、知られるようになった。物事の前提にされるようになった。一方的に他者を悪とほざいている声がネットに溢れているが、そのすべてが、もはや空しい。
こうした人間の自己本位さを、聖書は「罪」という言葉を使い、あるいは物語を記すことによって、私たちに突きつけてきた。その聖書をよく知っていながら、自ら正義を騙り、分断を作ってお山の大将になっている人が、意外なほどに多い。自分はその事態の外にいて、客観的にその物事を論じており、自分だけは正義なのだ、という図式に支配されている人は、残念ながら聖書の示す「神の霊」を知らず、それに反していると言わざるをえない。
もちろん私も、このことで誰か特定の人を非難してしまうならば、同罪だ。
原爆が悪だ。それはそれでいい。その通りだ。原爆のお陰で平和が来たとか、原爆の犠牲者は私たちの代わりに死んでくれてありがとうとか、そんなことは私は口が裂けても言えないし、考えたくもない。他人の命を利用するようにして、自分は正しいというような道を拓くようなことは、ごめんだ。もう会えないはずのひと。そのひとと、きっと会うために、安易な説明でひとを悪にしたり、ひとの命を利用して自分の思想を正当化したりするようなことは、ごめんだ。
私たちもまた、ウイルスに分断されないように、と頑張っている。巷には、罹患していなくても、すでにこのウイルスに負けているような人がうようよいるような気がしてならない。ひとを責めたくはない。だが、ひとを責め続けているような人に対して、私は信頼を置くことは決してない。
原子爆弾をつくったのは、そしてこれからもつくるのは、私なのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?