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『キリスト教の本質』(加藤隆・NHK出版新書708)

さて、どうしたものか。この本について書かなくてはならない。
 
まず、我ながらよくぞ最後までこれを読んだものだ、と自分を褒めてやりたい。若い頃、こうした本を読んだとき、途中で壁に本を投げつけたことがあった。人間、まるくなったものだ。
 
若いときには、憤りをそのまま出していた。だが今回は、怒りはなく、憐れみの思いが膨れ上がってくるのを感じた。どうしてこの人はこんなになってしまったのだろうか、と。最初からそうだったのか、それとも最近こうなったのか。後者だとしても、本質的にそうしたものを秘めていたからなのか、などと想像するのだった。
 
この著者が教会に通っているかどうかは知らない。フランスの大学の神学部に入ったり、聖書学者であると名のっていたりしても、それが教会生活をしているとは限らないのだ。仮に教会と関わっていたとして、もしかするとその教会とトラブルがあったのだろうか、と思った。教会のやり方に烈火の如く怒り、それに憎悪を燃やし、恨み辛みを本にしたくなった、ということなのだろうか。
 
特定の教会に批判的になる気持ちは、私はよく分かる。現にそう考えているし、その教会がとんでもないことに目がくらんでいる、ということを悲しく思い、なんとか気づいてほしい、という声を挙げている。全く誰も気づかないようではあるけれども。ただ、こうした批判は、あくまでも特定の教会である。また、信仰生活の中に隠れ潜む危険性を指摘するようなことも、必要だと考える。赤信号を皆で渡れば怖くない、という旧いギャグは、こういうところにも適用できるのであって、互いに義認し合っていることには、目を覚ましていなければならないと思うからだ。だが、それがあっても、そもそもキリスト教とはこのようにダメなのだ、と十把一絡げに言うつもりは全くない。キリスト教全体に恨み辛みをぶつけるようなことはしない。そんなふうには思っていないからだ。聖書は、どこかで誰かを助けているし、多くのひとを生かしている。
 
しかし本書の著者は、違う。何か個人的に不愉快なことがあったのだとしても、その矛先を、すべてのキリスト教なるものにぶつけているのだ。
 
偶々、同じ日に読み終わった本に『信じる者は破壊せよ』というものがある。これもキリスト教全体に関わるような批判の書である。ギリシアやローマの文化を破壊したローマ帝国公認の頃のキリスト教について、まとめて公開したような分厚い本である。しかし、その「イントロダクション」の最後に、本人は注意書きを置いている。著者自身は、善良なキリスト教信仰の恵みに与る一人である。そういう人々を攻撃することを意図した本ではない。そうは受け止めないで戴きたい。ただ、かつてどういう事実があったか、それを知ることは大切だ。正確ではないが、およそこのようなことを告げているのだ。また、これは通俗的であるが、豊富な文献と注釈が付せられている。歴史的事実を述べるのに、相当の根拠を以て記しているというわけだ。果たして歴史的にそれが真実であるのかどうか、それは私には判断できない。ただ、根拠なき指摘ではない、とは言えるだろうと思う。
 
ところが本書は、そういう気持ちの欠片もない。それをここで再現することも、論駁することも、私はするつもりはないが、初めからずっと、キリスト教の本質は「不在の神」にすぎず、教会は独善的で、人間の思うように神を操り、人間を集める宗教ビジネスをしているけしからん集団だ、ということを金科玉条のように掲げて繰り返し続けるのである。
 
私はただ、この人を憐れんでいるだけであって、議論したいわけではない。そこで引用もしないし、その主張を正確に辿るつもりもない。しかし私がどういうことを言おうとしているか、せっかくお読みになる方々にはお伝えしなければならない。それでざっくりとした言い方になるが、本書がさしたる根拠もなく言い続けることはご紹介しなければならないと考える。イスラエルの宗教はその不幸な歴史の原因を人間の罪に置く。人間に罪があるからそうなったのだ。だからこの民は、いわば神を発明した。この神を崇拝すればよいのだ。こうして人が神を選び、言うなれば神をつくった。歴史上神はまともに応えてくれない。実は「神はない」のだが、神が救うというような教義をキリスト教がどんどん組み立ててゆく。これは、人の望み通りに神を従わせることだ。人間中心なのに、うまいこと宗教ビジネスを始めたものだ。
 
気が重くなってきた。どうしたらこのような歪んだ見方ができるのか。もちろん、この人は聖書を勉強して給料をもらい続けてきた人だ。聖書について調べるだけ調べる時間をずっともっていた。本人なりに論拠があるつもりなのだろう。しかし、それを何か論ずるというふうな書き方ではない。幾度も言うが、教会やキリスト教への憎悪丸出しの文句が延々と続くのだ。それが、著者の「信仰」であるかのように。
 
聖書の愛などは、男と女の痴話げんかのような例を挙げて、ほらオレの言う通りだろう、というように、ずいぶんと見下したことをも複数回やっている。ちょっとした主張の言葉の端々に、軽蔑する相手に投げかける皮肉のような言葉を混ぜてくる。明らかに、相手を侮蔑する小さな言葉を挟んでくる、というのは、悪口を言われる側からすれば、間違いなく分かる。キリストに投げかけられた罵声をじっと堪えていたイエスの気持ちが、かすかに分かるような気がしてくるくらい、本書からは、キリスト教や聖書に対しての、攻撃的な言葉が、ひとときも休まず向けられている。
 
本人は、これがキリスト教の本質だ、ともう決めている。いない神を操るようにして、人間が人間を支配しているのは最悪の詐欺だ、という感じである。何かしら、そこから信仰するものが他にあるならば、ひとつの教会批判として建設的になったであろう。だが、それすらない。本書のどこに、信仰が、希望が、愛が、述べられているか、私には見出せなかった。キリスト教の本質には、そんなものはない、というのだ。というより、著者の中に、それらがないのである。
 
とにかく、聖書については、誰よりも研究する時間が与えられていた人である。とにかくあらゆる角度から、この原理をぶつけ、こじつけてくる。自分の見出したこの「本質」で全部説明ができる、と。しかし、聖書の記事をぼろくそにけなすときにも、信仰の目で読めば、否そうでなくても、そんな表面的なことで相手を論破したつもりにはならないだろう、と多くの人が考えるであろうような言い方をする。つまり、「金閣を造ったのはだれ?」「足利義満でしょ」「残念。大工さんでしたぁ」というのに匹敵するレベルの聖書解釈を次々と繰り出すのである。
 
とにかく教会が憎いようでもあった。が、次第に矛先は「宗教」一般へも向けられてゆく。キリスト教を攻撃することしかこの人はできないはずだが、いつしか他の宗教すべてが同様に人を騙している、と決めつけてゆくと、もはや論理というよりは、妄想の世界である。
 
読むほうもだんだん麻痺しかけて最終章に来ると、これがまた酷かった。打ち上げ花火の最終クールのように、今度はもう何の事例も理由も出すことなく、よくぞこれだけの悪口を並べ立てることができるものか、と逆に感心するほどに、聞くに堪えない言葉が鳴り止まなくなった。
 
面白いのが、「キリスト教の本質」という同じタイトルの本を2冊挙げ、それらをある程度内容に沿って批判するところである。フォイエルバッハとハルナックである。ご存じの方はお分かりであろうが、この二人を批判したところで、キリスト教全体を批判することには、到底なるはずがない。ここにえらく熱心に矛先を向けて、決定的な誤りだと結論するのだが、その際、こんなことを言う。「キリスト教の雑学的知識の一部を言い立てて、それが「キリスト教全体」だとする議論を検討するのは、どれも空しく、不毛なことである。」私はひっくり返りそうになった。二人の批判をした後、著者はこう言っている。「本書での私の分析では、キリスト教は全てが「神なしの領域」での活動でしかないことが、明らかになった。」
 
以前、この人の著者や訳書を読んだことがある。違和感を覚えないわけではなかったが、呆れ返るほどでなく、変わった考え方をする、という程度であった。それが、ここでは怒りを爆発させ、思い込みを吠えまくり、どうしてそんなにと憐れまれるほどに、あからさまな攻撃を続けて260頁余り叫び続けている。NHK出版新書という企画そのものの良識さえ、疑われても仕方がないようなことになった。
 
タイトルからして「キリスト教の本質」などと、間違ってキリスト教を知りたい人が手に取るようなものにしてしまった。これは罪が重い。以前、扶桑社新書から「キリスト教入門」というタイトルの本が出ていた。こちらは、宗教学者を名のるあの島田裕巳氏の者だったので、眉に唾をつけて開いてみたが、果たして「入門」ではなくて、キリスト教を求めてこの本を見たら、キリスト教に落胆させてすぐに出て行くようにしてあげる、というような敵意に満ちた、詐欺的タイトルだった。これは、キリスト者が読めば「こいつは何もわかってない」と分かるものだ、というコメントが販売サイトに載せられていたが、その通りであった。但し、今回の本は、フランスの大学の神学部だの、聖書学者だの、いわば折り紙がついている。それでいて、島田氏どころではない、個人的感情にまみれた思い込みの本である。聖書の知識を用いて、自分の憎悪を「キリスト教全体」だとしている。しかも、議論でも何でもない。
 
私自身もまた、著者と同様にきちんと議論を重ねずに、ただ攻撃しているだけではないか、と誤解されるかもしれないので、最後に弁明をしておく。私は、この本の指摘している点が悉く間違っている、などと言っているのではない。私自身、もどかしく思っている点を指摘していることがあるのは事実だ。そこで、「こういう問題点がある」と指摘することは大切であると思う。だが、「本質」、つまり原理とか根柢とかいうところを、感情で決めつけてしまい、そこから万事を悪の色に塗りかえるようなことをしてしまったことは、それなりの学びをした知識ある人のすることではない、と言っているだけのことだ。SNSで勝手な思い込みから誹謗中傷を繰り返す行為と、同じ穴の狢になってしまっていないか、ということである。
 
すでに、「神はいない」という考えを言いたかった人々が、本書に合わせて、声を大にし始めている。また、キリスト教はでたらめだ・自分勝手だ・詐欺だ、というような合唱が、本書をきっかけに出てきている。こうなると、聖書を学んだという著者が悪意を以てもたらした結果について、何か責任を感じるのかどうか、その声を聞きたい気がする。
 
重くなった。極めて個人的なレベルで、軽く締め括ることにする。私が支払った書籍代は、人生勉強のために払った、と自分に言い聞かせることにしよう。読むだけ時間の無駄だったというのが正直な感想だが、こうしたことを踏まえて、やっぱり最後にもう一度言いたい。我ながらよくぞ最後までこれを読んだものだ。

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