見出し画像

『方舟を燃やす』(角田光代・新潮社)

人気作家の新しい作品を、珍しく読みたくなった。425頁まで本文があって、税込みでも2000円を切るのは、いまどき割安な量かもしれない。もちろん、長さが作品の質を決めることはない。本作は非常に読みやすい。引っかかるところもないし、たどたどしく読み直すようなところもない。これは流行作家にとり有利な特徴である。
 
とはいえ、読み手によるかもしれない。私はこの作品の中にある話題の多くにコミットしていたのだ。タイトルの「方舟」はもちろん聖書の創世記の大きなドラマである。角田光代さんは、以前にも『タラント』という、新約聖書に由来するタイトルの小説を書いている。私はそれも読んでいる。タイトルに惹かれたのだ。今回も、やはりそうだ。作家自身はキリスト者ではないというが、プロテスタントの中高で学んでいることは、少なからぬ影響をもたらしているという。
 
小説については、あらすじを説明するつもりはない。が、何も語らないわけにはゆかない。表紙の黒い猫は、物語に登場する猫のことだろう。特に最後のほうで物語を動かす役割を果たすが、必ずしもメインのキャラクターではない。ただ、地域猫の説明がなされるところで、私と強い関わりが出てきたのは事実である。
 
物語は、二人の人物の人生を交互に描くことから始まる。それが終盤で出会い、ひとつの場面のために結びつくのである。それまで接点は何もない。また、普通こういうものは、別々に育った男女が出会って恋に落ちる、というロマンスが多いが、本作はそうではない。
 
章のような区切りは、人物名と年号だけというシンプルなものだ。たとえば最初は「柳原飛馬 1967」とある。当然「巨人の星」の「星飛雄馬」が連想されうる。また、そういう年代が取り上げられている。名前は飛行場に由来して「飛」が点いており、最初の場面は飛行場に家族で出かけるところである。これは重要な足がかりかな、と構えていたが、残念ながら飛行機の話題はこの後立ち消えになった。1967年は飛馬の生まれた年であり、作者の誕生年でもある。よく知るその世代の見てきたことが、物語では随所で描かれる。世代の近い人にはよく分かるだろう。
 
もうひとりの登場する章は「望月不三子 1967」となっている。この時には、高校生であるらしい。こういうわけで、この二人は年代が異なるわけである。因みに、本作品は2022年4月から一年間にわたり連載されていたものを、大きく修正して単行本としている。
 
コロナ禍である。本作は、その時代時代の出来事をずっと背景に重ねながら描いているため、最後はコロナ禍に入ることになる。
 
母親の死を自分のせいだと思う飛馬の心は、小学生の頃に、ノストラダムスの大予言に遭遇する。自分の人生は32歳までしかないのだ、という暗示にかかってしまっているわけではないが、心のどこかで囚われている。ちょっと無器用な生き方しかできないように見受けられる。
 
不三子のほうは、見合いで平凡な結婚をする。大予言などばかげたものと相手にしないが、その後妊娠中に通い始めた料理教室で、勝沼という先生と出会い、人生が変わる。健康のために、マクロビオティックという、いうなれば自然食のようなものの思想に囚われていくのである。結局、このことがこの人の一生をその都度導いてゆくことになる。
 
互いに、親や配偶者を失うが、私の見立てでは、不三子の心理のほうがよく描けているようである。自然食品の思想に支配され、生まれた子どもに対する執拗さは、ちょっとカルト宗教的である。ついに学校給食を認めず、自分の手作り弁当を食べさせる。お菓子もだめ、などという制約を与えた子どもが、よその家でお菓子を食べたことが分かると、絶望的にさえなる。そしてその子は、やがて激しく反抗するようになり、家を離れてしまうのだ。
 
時代の中で、大きな事件もちらりと顔出しをするし、阪神淡路大震災も関わってくるが、やはり大きなフラグを立てるのは、オウム真理教事件である。これが、ノストラダムスの大予言と関わってくることは言うまでもない。
 
熊本地震も少しだが背景に描かれるのに、東日本大震災の時代は素通りしているのが不思議な気がする。もしかすると、もう少し物語を膨らませてよいのであれば、取り入れたのであろうか。
 
孤独になった不三子は、コロナ禍の前から「子ども食堂」に関わることになる。すでに60代になっている。あの健康食が役立つようにもなるのだ。飛馬もまた、公務員として地域支援に担当することによって、同じ子ども食堂に関わるようになった。そこで、互いにやや外部に立つような者として、話をするようになるのだ。
 
子ども食堂の現場は「教会」である。これも作者の中高生時代の経験のなせる業であるかもしれない。土曜日の夜遅くまで、なかなか牧師は関われないとは思うが、実際牧師夫妻の描写については、あまり実感がないものとなっている。
 
二人とも関係するが、とく不三子においては、「ワクチン」は大きな課題だった。その健康食の思想からすると、ワクチンはとても危険なものであり、自分の子どもたちにも受けさせなかった。「ひとがいうことをすんなり信じてそれでよいのか」という問題意識が、物語の全編を漂う。不三子は懸命に、自分の頭で考える。それが、実は人生を狂わせてきたとは本人は考えず、最後までそうである。
 
ついにコロナ禍に入るが、教会が直ちに「礼拝を中止します」としてしまったことは、リアリティがなかった。やはり教会そのものの活動については、作者は実感が薄いのではないかと思われる。しかし教会を場所とする子ども食堂は、少しすると再開するのだ。果たしてそれは実際可能だったのだろうか。可能だったとしても、教会があっさりと礼拝中止を宣言したこととは対照的である。礼拝再開についても、とくに描かれてはいなかったように思う。
 
猫については、敢えて持ち出さなかった。最後に物語を振り回す女の子が登場すると、触れられることだけは、ご紹介してもよいだろう。また、方舟のことも、349頁に描かれるだけのこととして捉えてよいかと思うが、ノストラダムスやマクロビオティック、そしてワクチンというアイテムが、方舟という題名を支えていることになるのだろうか、と思った。
 
ぐいぐいと読ませていく魅力はある。文章の巧さは間違いない。流石である。必ずしも伏線をきっちり回収するタイプでもないようだし、非常にリアリティがある場面と、おっとあれはどうなったのだ、と軽くかわされたような気持ちになる場面とがいろいろあって、まあ現実というのはそうだろうな、などと思いながら、必ずしも結末とは呼べないような最後を見て、この後彼らはどうするんだろう、という不安な気持ちにもさせられた。
 
同世代の読者は、ちょっとくすぐられるところは、多々あるだろう、とは思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?