【毒親日記】DVに耐えて毎日同じ服着た貧乏生活
はじめに
※この記事はシリーズ形式にしていましたが、文章が長くなってしまったので大幅に更新しました。マガジンにて更新していますので、ご覧くださると励みになります。
安全な場所がない
学校にも居場所がなかった
家がこんな状況だったから学校では安全だったかというと、そんなこともなかったです。
暴力で解決する父親を見て育ったからか、私も気に食わないことがあるとすぐ態度に出ました。さすがに手は出さなかったですけど。
あと、人付き合いもわからなくて、空回ってばかりでした。
だからグループに入れてもらえず、上級生になるごとに徐々に孤立していきました。
家では、言うことの聞かない小さな弟の頬をつねったり頭を叩いたりして言うことを聞かせようとしてました。
父親が母親にしていたから真似してましたが、泣くので母親に気づかれて怒られてました。
父親は泥棒してると思ってた
父親がお金をどうやって稼いでいたのか分からないのですが、しょっちゅう外食してました。
はたしてお金はどこから湧いてくるのだろう。
株でもやっていたとは思えません。
だから、盗みでも働いているのだろうと思って、帰ってきた父親が脱ぎ捨てた上着で遊ぶふりをしてポケットを漁ってました。
もちろん何もなかった(たまにたばこの箱が入っていた)けど、「今回は収穫がなかっただけなのかもしれない」と、疑ってしばらく続けてました。
引っぱたいてくる怖い父親でも、お金さえ家に入れてくれれば、居ないよりはマシでした。
真冬の朝食は「冷たいコーンフレーク」
「今日の私はご飯を食べていけるのか」と、毎日そればかり心配していました。
父親の機嫌がいいときは外食に連れて行ってくれるけど、家でのご飯は
質素なものでした。
ご飯に味噌だけの汁と肉1切れがあればご馳走でした。野菜は高いので付けられません。
小学校へ行くために早起きして、外気にあたって冷たくなった深皿と、冷たい金属製のスプーン。そして、冷たい牛乳とコーンフレーク。
1杯を少しずつ、よーく噛んでお腹を満たして通学しました。
1時間目が終わるころにはお腹が鳴って、周りに聞こえていないだろうかとすごく恥ずかしかったです。
同じ服を毎日着る
周りの子はドラマの話をして好きな俳優さんの話をしたり、小学生向けのファッション雑誌を見て読モの〇〇ちゃん可愛い~なんて話しているさなか、私は毎日同じ服を着て登校していました。
令和の時代では、すぐさま虐待を疑われてもおかしくないのですよね。
私が小学生のころは、まだこの辺の規定がゆるかったのでしょうか。
体罰とか普通に横行していましたからね。
今回はここまで。
つづきます。
つづく
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