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海太郎、海を行く #9 イワシ禁断の地

「私以外に、海の生き物たちと会話出来る人がこの世にいたなんて…驚いたわ」

海女ゾネスにそう言われて、海太郎は我に返った。そういえば…。彼女は、自分とウルメ医師のやり取りを確かに理解していた。

「きみも海洋生物たちと話せるんだね」

海太郎と海女ゾネスは、自身になぜそのような能力が備わっているのか? また、いつ頃からその能力を自覚し始めたのか? 互いに生い立ちも含め話し合ったが、大体似た者同士であった。

初めて海の生き物たちと会話したのは物心ついた頃。周りの者には信じて貰えなかった事。やがて自分だけの秘密にしようと決意した事。

「ねえヘストン、なんだかよくわからないけど、私、久方ぶりに心地よい眠気が…。もう寝るわね」

海女ゾネスはそう言うと、本当にグースカ寝息を立てて眠り始めた。

海女ゾネスの寝顔を見つめながら、海太郎は彼女の気持ちがわかるような気がしていた。心の奥底にずっとずっと抱えていた「孤独」から解放され、安堵感を覚えたのだろう。海洋生物たちと会話出来る、出来てしまうのは、自分ひとりではなかったのだ。

無人島にたどり着いたと思ったら仲間がいた…。海太郎は、某プロレスラーの名言と同じ心境、海女ゾネスと出会えたという巡り合わせだけで胸一杯、ヘストン胸一杯であった。これだけでも、おっとうとおっかあの元を離れ、旅に出て良かったと心底思えた。イワシたちに連行されたことすら、むしろラッキーだったかもしれない。

海女ゾネスに出会えたのだから。

海太郎も心地よい眠気を覚え、うとうと眠りにつき始めた。

「ヘストン、ヘストン、起きて」

「え…?」

「ヘストン、起きるのよ、起きなさい!」

「じゃかましいわい!」

元来、寝起きの悪い海太郎は、半分寝ぼけたまま、自身の怒鳴り声で目を覚した。

「まあ!人間て凶暴ね」

海太郎の目の前には、ウルメ医師がいた。彼女は檻の中にまで入ってきていた。寝起きで、まださっぱり状況を呑み込めていない海太郎の耳元を隠すように胸ビレを立て、小声で言った。

「今からヘストンに連れて行って欲しい場所があるの」

「連れて行って欲しい…場所?」

「そう。今すぐよ」

でも…と、海太郎はグースカ眠っている海女ゾネスのほうに目をやった。この世で唯一の同じ能力者、唯一の仲間である海女ゾネスを残して檻を出て行くのは気が引けたのだ。

もたつく海太郎に、ウルメ医師はどこか冷ややかに言い放った。

「あなたが一緒に連れて行きたいなら、そうすればあ?」

海女ゾネスとは、まだLINEのIDも交換していない。ここで置き去りにすれば、なんだか一生会えないような胸騒ぎを覚えた海太郎は、海女ゾネスを起こしにかかった。が、彼女は低血圧なのか、どれだけゆすっても、鼻の穴をタツノオトシゴでこちょこちょしても、イビキをかいたまま一向に起きる気配がない。

海太郎は、海女ゾネスをそのままおぶってウルメ医師に向き直った。

ウルメ医師は、門番のイワシ二匹に、今度は大きな声で告げた。

「今から、この二人は実験に使うから、ちょっと外に出すわね。心配はいらないわよ。すぐ檻に戻すから」

「し、しかし…」

「ウルメ医師、イワン将軍の許可証は…?」

海太郎と海女ゾネスを引き連れて悠々と檻を出て行くウルメ医師に、門番二匹は明らかに狼狽している。

「あなたたちい、あたしと将軍がどんな関係なのか、おわかりでしょーん?」

ウルメ医師の言葉に、門番二匹はうろたえ、何も言葉を返さないまま、ピンと背筋を張って敬礼した。

海太郎は門番二匹を一瞥しながら、ウルメ医師とイワン将軍の関係をなんとなく察した。去る軍法会議において、ウルメ医師のたったひと言で、イワン将軍が議会の決議を覆したことからもそれは窺えた。

ウルメ医師とイワン将軍は、つまり、男女の関係なのだろう。

檻から解放された海太郎は、海女ゾネスをおぶって泳ぎながら、ウルメ医師に聞いてみた。

「ところで、あなたが連れて行って欲しい場所とは、どういう意味でしょうか? 自分で泳いで行けばいいじゃないですか。海の中のことは、私なんかより、イワシであるあなたの方がお詳しいでしょう?」

海太郎の問いに、ウルメ医師の表情が一変した。明らかに神妙な表情となった。

「それが、そうもいかないのよ…」

ウルメ医師によると、イワシ共和国では、代々、岩礁を超えた「禁断の地」に侵入してはならないという教えがあり、イワシたちも幼少時からそう教育され、岩礁の向こう側には決して侵入しないという。

なぜか?

「我々イワシの世界では、禁断の地に侵入したら、海が滅ぶという学説があるの。だから誰も禁断の地には近づかないのよ」

あまりに荒唐無稽な学説に、海太郎は吹き出しそうになってしまった。

「でもね、私は医者として、研究者の立場として、その学説は誤りではないかと思い始めてるの」

「なるほど。その根拠は?」

「それはね…」

ウルメ医師は水を掻くヒレを止め、あらためて海太郎に向き直った。

「それはね、あなたたち人間が、ヘストンと海女ゾネスが、岩礁の向こう側、つまり禁断の地の方角からやって来たからなの!」

当初、あまりに馬鹿げた話だと一笑にふすところであったが、ウルメ医師の真剣な面持ちから、この話には、どうやら人間である自分にはおよそ理解し難い、イワシたちなりの深い闇があるに違いないと海太郎は感じた。

冷やかし半分でウルメ医師のお供をしてはいけないな。海太郎は襟を正した。

「急ぐわよ。無断で檻を出て来たことは、いずれ将軍の知るところになるわ」

海女ゾネスをおぶった海太郎は、ウルメ医師と三人で… 

いや、二人と一匹で、禁断の地を目指した。

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