少女らしい一てつなジャスティス
この文章はインスタグラム@non_alcoholic_daysで投稿したものから加筆、編集し、載せているものです。
自分と反対側の立場で考えることって何となく「やらなくていいこと」にされているように思う。アイデンティティが薄まりオピニオンが弱くなる印象がある。だから情報うずまくSNSでは余計にじゃまなのではと思う。
だからか、石井桃子さんが「みがけば光る(ぼんやり者と恋愛)」で書いていたことは新鮮に感じた。
彼女が学生のとき、友人が女性であることを嘆いた。進学も、就職も男性は選べるのに女は選べないというような不自由であることを述べ、あなたはなぜ嘆かないのかと聞かれ、石井さんはこのようなことを答えていた。
「もし自分が男に生まれていたら、そのころの日本では、自分もそこらに見る男と同様、やがて結婚するだろう女を、きっとふみにじることになるのだ」
石井桃子さんはこのことを「少女らしい一てつな正義観」だと表現している。
もし、反対の立場だったら自分は反対の立場の人を尊重できるだろうか、と立ち止まって考えている。そんなこと考えても無意味と言われるかもしれない。でも、そのような考え方は争いには参加しないという表明になるのではないかと思う。
もちろん、それぞれの正義は違うというのはわかる。でもそれを二項対立にして、ぶつかり合ってしまうのは好ましいことではないと思っている。
だから、石井さんの言葉は、私にとっての正義に対する矛盾のようなものを解消してくれた。
正義というのは「どちらかに寄らなければならない」ということではないのだな。中庸という選択肢もあってよいのだという気づきがあった。
考えてみれば、スイスのように永世中立国という国もある。
他の諸国家間の戦争に関係しない義務を負うかわりに、その独立と領土の保全とが他の諸国家によって保障されている国家。(wikipediaより)
どちらが、何が正しいのかと揺さぶられる機会が多いので、人も中立的なポジションをとったり、選ぶのを保留したりしてもいいんじゃないかな。
それは「争わない」という少女らしい一てつな正義観なのではないか。
このような正義観こそ、今必要なんじゃないかって思う。
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