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大和岩雄遺稿『日神信仰論』(2)

 大和岩雄さんは『日神信仰論』の中で、皇祖神天照大神(天照大御神)と高天原は『古事記』において創作され、『日本書紀』にも「一書に云う」という形で挿入されたと述べています。もし、そうなのだとしたら、なぜそのような作業が必要だったのでしょうか。

 結論から書くと、持統天皇が孫の軽皇子を皇太子にするためでした。この、天皇から孫に皇位を継承するという前例のないことを成し遂げるために、「天孫降臨」という神話を創作し、周囲の皇族や豪族たちに納得してもらったのです。

 持統天皇は天照大神に相当し、孫の軽皇子は天孫瓊瓊杵尊に相当するというわけです。
 その証拠として、持統天皇の諡号(崩御後に贈られる称号)をあげます。

 持統天皇は大宝二年[702]十二月二十二日に崩御します。その一周忌の直前に次の諡号がおくられました。

大倭根子天之広野日女尊おおやまとねこあまのひろのひめのみこと
                (『続日本紀』大宝三年十二月七日条)

 ところが『日本書紀』の持統天皇の諡号は違います。

高天原広野姫たかまのはらひろのひめ天皇

 天照大神は高天原の女神です。持統天皇の諡号は高天原に坐す天照大神を念頭に置かれたものと思われますが、最初の諡号を変更する特殊な事情があったと考えられるのです。
 

 朱鳥元年[686]天武天皇の病状が重くなった時、皇太子草壁皇子、大津皇子、高市皇子に四百戸の封戸が与えられました。天武天皇は草壁皇子が病弱であるため、大津と高市の二人の皇子も、皇太子が崩じた場合に備えて、天皇候補にと考えていたようです。三人に平等に封戸を与えたのは天武天皇が三人を跡取り候補として同格とみていたからというのです。

 どうしても草壁皇子に皇位を継がせたかった皇后は危機感をもちました。病弱な皇太子を守ろうとし、大津皇子、高市皇子に皇位を継承させる考えはありませんでした。

 天武天皇が崩御するとほとんど間を置かず大津皇子の謀反が発覚します。これは恐らくでっち上げの冤罪であるといわれています。裏で皇后の指示があったと思われます。逮捕された大津皇子は自害しました。

 ところが草壁皇子は即位する前に急死してしまうのです。そこで皇后は自ら即位して持統天皇になりました。
 持統天皇は政務を高市皇子にまかせていました。異常と思えるほど吉野に幾度も行幸していることからみても、天皇の役目を全く放棄していると大和さんはいいます。

 持統十年六月を最後に吉野行きがストップします。七月に太政大臣高市皇子が薨去したのです。

庚戌かのえいぬ 後皇子尊薨のちのみこのみことうせましぬ

 高市皇子の死亡記事はたったの五文字、これだけです。太政大臣として政治の実務を執っていたいた人にしては異様に短い内容です。高市皇子は暗殺されたとみられます。もちろんこれも、持統皇后の意向が働いていたとみるべきです。

 そのあと十月の条に、多治比真人まひと、阿部御主人みうし、大伴御行みゆき、石上麻呂、藤原不比等ふひと資人つかいびと(私用の舎人)が給されたとの記事があります。

 資人が給付された具体的な理由が書かれていないことから、大和さんはこれらの人間が高市皇子暗殺に関わっていたと見ているのです。特に役職のない石上麻呂と藤原不比等の名があるのは、実行犯がこの二人であるからで、そのほかの身分の高い人々は暗殺を黙認したのだろうと。

 そして彼らは前例のない持統天皇の皇孫の皇位継承を認めたのだと大和さんは推測しています。

 こうして草壁皇子の忘れ形見、文武天皇が即位しました。


 それでは太陽神を天照大神というひと柱の女神に変え、高天原という縦イメージの天の概念を作り、「天孫」を降臨させるという神話を創作して『古事記』に書いたのは誰でしょう。

 大和さんは多臣品治おおのおみほむぢがその人だと見ています。
 多臣品治は天武、持統両朝に仕えた人で、壬申の乱の功労者でもあります。
 多臣品治の死亡記事とみられる文章が、さきの高市皇子の薨去の記事のすぐあとにあります。その記事の文字数は、高市皇子の死亡記事の五倍ほどあるのです。
 多臣品治は持統天皇紀に、他に何の記載もありません。太政大臣として大活躍していた高市皇子とは対照的です。
 それなのに、高市皇子の死亡記事は先ほど書いたようにあれで全部です。多臣品治は二十三文字あります。これはちょっと異様です。

『古事記』の編纂者、太(多)安万侶の縁者とみられる多臣品治が『古事記』に関わっていたという証拠はありませんが、大和さんは彼こそ高天原の天照大御神と天孫降臨神話を創作した人物と推測しているのです。

 ただ、この「作文」は一部の人しか目にすることがなかったので、万葉集には「高天原」という単語は一つもなく、相変わらず横イメージの「天の原」ばかりなのです。当時の人にとってはお日様はそうして拝するのが常識だったからです。


                             つづきます

 

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