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将門を祀る!鎧神社(新宿区)

 JR中央線、総武線が大久保から東中野にかけてカーブしている、そのカーブの内側に近い所にあるのが鎧神社だ。
 今回は大久保駅から歩いた。細い道を線路から離れないようにして歩いていくと、静かな住宅地の中に神社があった。

 日本武尊、大己貴命、少彦名命、平将門公を祀る。神社の由来によると、日本武尊が東征の折に、甲冑をしまい隠した(埋めた?)のが社名の起こりだという。
 また天慶九年[940]に平将門が討死したのち、天暦元年[947]将門の縁者が将門の鎧をここに埋めたという。

 それとは別に将門を討った側の藤原秀郷(俵藤太)の伝説もある。将門軍の残党を追ってきた秀郷が、ここへ来て重病になり、将門の祟りと恐れて薬師如来を本尊とする円照寺の境内に将門の鎧を埋めて、一祠を建ててその霊を弔った。するとようやく病も癒えたという。
 里人は将門公の神威あらたかなるを畏み、産土神として信仰して来た。

 ところが明治になって、政府の命令で将門は末社に追いやられた。将門は朝廷にたいする逆賊だからだ。

末社稲荷神社
末社天神社

 しかし千年もの間、氏子の産土神、鎮守の神として大切に祀られてきた神社である。太平洋戦争終結後、氏子の総意によりまた元のように本社に戻されたという。

天神社の狛犬はなぜか猿
しかも狛犬型の庚申塔だという
享保六年[1721]の銘があり、
民俗学的にも貴重なもの

 明治になるまで鎧神社の別当寺だった円照寺は、今もすぐ近くにある。

 医光山円照寺は真言宗で本尊は薬師如来。奈良時代の行基菩薩の作という。
 ここでの藤原秀郷の話は、先ほどの鎧神社の伝説とは少々違う。鎧神社では、将門が討たれた後に秀郷が病に苦しんだとあったが、円照寺では将門討伐の途中に、中野の辺りでひじの痛みが悪化して苦しんでいたところ、夢に薬師如来が立ち、この先の薬師を祀るお堂(この時点ではまだ寺ではない)で祈願せよという。
 秀郷は薬師のお堂に祈り、ようやく回復して、将門を討ちとることができた。そして秀郷は円照寺を建立したのだという。

山門
石仏群の奥にあるのは閻魔堂

 この話に鎧は出てこない。
 真偽を確かめるのは困難であるが、二つの話を突き合わせると、神社の方が歴史は古そうである。この地に円照寺のルーツである薬師堂ができたのは、天慶の乱の少し前の醍醐天皇の御代[897~929]という。


 私の感じた勝手な想像だが、円照寺が将門ではなく秀郷よりなのは、やはり本山が奈良(大和)にあって、朝廷に立場が近いこともあるからではないか。天慶の乱の時、特に京に近い大寺院、神社が競って将門調伏の祈願をした。そして将門が討死すると、祈祷の霊験を我勝ちに誇った。

 それに対して、鎧神社ははっきりと平将門を祭神にしている。氏子は将門公を敬い、大切の祀っている。だから、秀郷は将門の怨念に苦しめられたという話になったのではないだろうか。


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