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呪術都市江戸①

 江戸は武力により守られた武士の都市であると同時に、要所要所に呪術を施し、その呪力により都市を防衛しているといわれている。それは本当だろうか。

江戸は四神相応の地なのか?

 江戸城は四神相応の理想的な場所にあると言われている。

 四神とは中国の陰陽五行思想で、方位を象徴する架空の聖獣のこと。北を玄武(蛇が絡みついた亀の姿)、東を青龍、南を朱雀(赤い鳳凰のような鳥)、西を白虎という。奈良県のキトラ古墳の四方の壁画に描かれているのを思い出される方もいるだろう。

 四神相応の土地とは、周辺が四神に見立てた地形と合致する場所で、都市を作るのに理想的だと言われているのである。すなわち、北には玄武の山がある。左(南面して立ったとき。すなわち東)には青龍の河が流れる。右(西)は白虎の大道がのびる。南は朱雀の沢畔たくはんがある。

 例えば平安京はこの理想的な場所であるとされている。北に玄武の貴船、鞍馬山があり、東に青龍の鴨川の流れ、西は白虎の山陽道があり、南には朱雀の巨椋池がある。(巨椋池は現在は消滅)

平安京の四神相応概念図

 江戸も四神相応の土地であるとされている。
 十八世紀の中ごろに成立した『柳営秘鑑』という書物によると、「凡そ江戸城は、天下の城の格に叶い、その土地は四神相応にかなっている。まず前方には海を埋め立てた商売に便利な下町の賑わいは前朱雀に習う。人が群がり集まる常盤橋や竜の口の落ち口の浄さは左青龍の流れを表す。往還の通路は品川まで続き、右白虎を表して虎ノ門がある。うしろは山の手に続き、玄武の勢いがある」(現代語訳、土偶子)

 これを読んで、「ふむふむ、なるほど」と納得した方は素直な人である。私はひねくれているのか、「ちょっと待て?」となった。前とか後とかあるが、方角が一つも書かれていない。

 もう一度『柳営秘鑑』をよく読んでみよう。
 前の海の埋立地(原文では「地面打開き」とある)とは、日本橋から新橋辺りの町人の商業地で、江戸城の東にある。
 常盤橋や竜の口とは、平川(日本橋川)及び道三堀のことだろう。これは江戸城の北を流れている。
 品川に続く往還とは東海道のこと。東海道はなるほど西国へ通じているが、多摩川を越すまではほぼ南に延びている。また、虎ノ門も江戸城の南に位置している。
 うしろの山の手とはどこだろう。山の手とは複数の台地が手の指のように伸びている地形を表しているが、この場合は城の西の麹町台地のことだという。

 地図で確かめてほしい。四神相応と言いながら、実は方角的には左に転倒している。朱雀の下町(江戸湊)は南ではなく東に、青龍の平川は東ではなく北に、白虎の東海道は西ではなく南に、玄武の台地は北ではなく西にある。
 これを果たして四神相応といっていいのか。「いや、よくないだろう」呪術とはそんないい加減な、というかご都合主義では効力がなくなるのではないか?

 江戸湾は、江戸城の埋め立てが進む前は城の南まで入り込んでいたから、これは朱雀といってもよいかもしれない。西へ往く大道は素直に考えれば、甲州街道でもよいはずだ。東の流れは、平川よりも大川(隅田川)の方がふさわしいと思う。なぜなら、平川は神田川の放水路工事で分断されてしまうからだ。

 一方、北の玄武はどうだろう。本郷台地だろうか。ここにはしかし、神田明神がある。神田明神は江戸城の鬼門を守護すると言われている。北ではなく艮だ。(厳密には艮ではないが) 

 そもそも山の手台地を山と呼べるのだろうか。山の手は武蔵野台地の先端にあり、川などの浸食によって手の指のように別れてはいるが、ひとつの台地なのである。それがずっと西の奥多摩まで続いている。とても山とは言えない。まして、玄武といえる地形ではない。

国土地理院デジタル標高地形図
https://www.gsi.go.jp/kankyochiri/degitalelevationmap_kanto.html

 だいたい関東平野はだだっ広くて、その端に位置する江戸は、山岳地帯から離れすぎている。

 建築史家の内藤昌氏によれば、江戸の南北軸は約百十一度西に傾いているという。そして玄武とは麹町台地から見た富士山なのだという。

 ……え…ちょっと、なに言ってんだかわかんない。『柳営秘鑑』にも出てこない富士山をなぜここに出す。家康が富士を愛していたから、太祖山(玄武)は富士山以外ないだろうという。
 だったら、駿府城の方がまだふさわしいように思える。安倍川は城の東ではなく西を流れるが、南は駿河湾がひろがっているし、東海道は西に延びているし、真北ではないが富士山もある。北条氏の本拠地だった小田原でもよいし、いっそ真ん中をとって富士市なら富士山が北にどんとそびえているじゃないか。

 えぇい、もう、はっきりと言ってしまおう!

 江戸は四神相応の地ではない。

 四神相応だから、江戸が選ばれたのではない。神君家康公が江戸を選び、都市を造り上げたのだから、四神相応に違いないと思いたい後世の人(例えば『柳営秘鑑』の著者とか)の願望に過ぎない。あるいは百歩譲って、こじつけである。

 江戸を徳川の居城としたのは、別の理由があるのだろう。そしてそれは、四神相応かどうかという問題よりも大きな理由だったと思う。

 家康が天下統一を考えてここを選んだのだとすれば、理由の一つは広さだろう。
 大名たちに謀反を起こさせないように、常に見張っておく必要がある。そのために参勤交代を義務付け、江戸に妻子を滞在させて一種の人質としておく。それにはすべての大名に江戸の土地を与えて屋敷を作らせなくてはならない。広い土地が必要になる。

 そして、将来の都市の発展を考えれば、関東平野は「持続可能なポテンシャルがある」と考えたのではないか。現に江戸は十八世紀には世界有数の人口を抱える都市になっていた。
 
 もう一つの理由は、五街道が集結する交通の要衝だということ。江戸湾という素晴らしい海があること。

 そして、天皇のいる京から程よく離れていることだ。源頼朝が開いた鎌倉幕府のことは、家康の頭の中にはきっとあったに違いない。
 さらに、西国と東北に目を光らせることを考えると、江戸が一番いい位置にあると考えられる。




 初っ端から、否定的なことでがっかりだろうか。でも、ご安心を。江戸が呪術都市なのは間違いない。
 次回からいよいよ怪しい領域に入っていく。

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