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将門を祀る?天寧寺(青梅市)

 JR青梅線の東青梅駅の北口を出て、成木街道を北に向かって歩く。途中、青梅第四小学校の角から城山通という道が伸びていた。道沿いのコンビニや住宅の向こうに、二つの小山が見える。あれが城山なのだろうか。
 確信を持てなかったので、写真を撮らなかったのだが、帰宅してから調べてみると、やはり勝沼城という城跡があるらしい。(ろくに下調べをせずに、とりあえず現地に行ってしまう、私の悪い癖。お陰で、あとでしまったと思うこと度々・・・)

 勝沼城は三田氏の城だったという。このシリーズでもたびたび紹介した三田氏は桓武平氏で、平将門の子孫を称していた。(三田氏は壬生氏という説もあり)
 青梅や多摩地域に将門に関係がある寺社が多いのは、三田氏の領地だったことと無関係ではない。

 三田氏は室町時代の武蔵国の有力な国衆(国人領主)だったが、永禄四年[1561]~永禄六年頃、北条氏に滅ぼされた。
 その後、師岡山城守が城主になり、城の名称も勝沼城から師岡城に変わったという。(師岡氏も三田氏の一族という)

 天正十八年[1590]豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅び、師岡城も廃城になった。

 さらに成木街道を進み、根ケ布という信号の所から右に別れる天寧寺坂通に入った。500mほど行くと、右手に寺の入り口が見えた。坂道を登っていく。

総門
参道の上り坂
寺は丘陵の上にある

 高峯山天寧寺は曹洞宗の寺。勝沼城主の三田氏宗が文亀年間[1501~3]に甲州中山の広厳院第二世一華文英(神岳通龍禅師)を開山として創建した。
 本尊は釈迦牟尼仏。

 実は元々、真言宗の高峯寺があった所。高峯寺は平将門が創建したと伝えられている。山号の高峯山は高峯寺からとられている。
 高峯寺は将門の乱の戦火で廃寺となったらしい。三田氏が将門縁の寺の跡ということで再興したということだろう。

山門
山門の下になぜか駕籠があった
いつの時代の物?

 

 天寧寺の鐘楼のつるされた鐘は大栄元年[1521]三田政定により寄進され、昭和二十四年[1949]に国の重要美術品に認定された。
 鐘銘には「大檀那平氏朝臣将門之後胤三田弾正忠政定」とあるらしい。ちょっと遠くて、確認できなかった。

鐘楼
中雀門
中雀門の鬼瓦
法堂
まだかろうじて梅の花が咲いていた

 ここを訪れたのは春分の日の前日で、天寧寺の墓地にはお彼岸の墓参りに訪れる人の姿もちらほらあった。駅から2㎞ほどあるので、私のように徒歩でこの寺に来る人間は少数派だろう。大抵は車で来る。
 まだ涼しい季節なので、歩くにはちょうどいい。

中雀門と禅堂
法堂、禅堂、中雀門は回廊でつながっている
回廊
禅寺らしい造り

 天正十八年[1590]に火災に遭い堂宇を焼失している。江戸時代の慶安二年に徳川氏は本寺格ニ十石の朱印状を付与した。その後も度々火災に遭っているが、現在の七堂伽藍の姿になったのは、嘉永三年[1850]のことだそうだ。改修を経て今に至っている。

山門内、酒持ち込み禁止である

 天寧寺は江戸時代には三十七箇寺の末寺があった大寺院だった。現在でも青梅市内に十四箇寺が残っているという。

 また、三田氏の家臣だった野口刑部が三田氏の位牌を納めたという。これは青梅市の金剛寺、海禅寺にもあり、市の有形文化財に指定されている。


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