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六歌仙のなぞ(9)

◆小町という名前◆

【小町と后町との関係】
 第二章で小野小町の本名について少し触れたが、今度は「小町」という名前について考えてみたい。
 「小町」というのは、もちろん本名ではない。清少納言とか紫式部などのように、言ってみればあだ名(通称)である。この時代の女性は本名を明かすことが少なかった。
 「――子」という女性名は奈良時代からあったが、普及し始めたのは九世紀の嵯峨天皇からである。というのは、嵯峨天皇が自分の娘(内親王)に「――子」とつけたからで、これ以後貴族の女性たちは、このタイプの名前を名乗るようになった。しかし、それ以外の階級の女子は、一生を幼名のまま過ごした。つまり「――子」という名前は、宮中や神社などの公の場で活動する女性のみが用いた名前なのである。(「――子」は成人した後の名前で、それ以前は幼名である。)
 しかも、その名前でさえ日常では使われなかった。普通は「某の娘」とか、「姉子(長女)」とか、「二條(実家のある場所)」などの通称を使っていたのである。というのは、本名をやたらと他人に教えるべきではないという考えがあったらしい。名前には呪力があって、しかも本人そのものを表すものだから、滅多に名乗ってはいけないのだという。男性の場合も同じで、本名よりも「太郎(長男)」とか、「少将(官職)」の方を普段は使っていた。文書(特に公式の)の上でしか、本名はあまり使わなかったのである。
 男性でさえこれだから、まして女性の本名はなかなか残りにくい。

 「小町」は通称の方である。第二章では、小町の町は天皇の更衣を表す名前ではないかと書いた。これは小町研究では最も有力とされる説で、これに異論を唱える人はほとんどいないといってよい。
 『大内裏図考証』に、後宮の常寧殿を区切り、それを町とよんだことを根拠としたのである。(片桐洋一『小野小町追跡』笠間書院)「后町」には更衣が住んでいた。女御以上になると殿舎をひとつ与えられるが、更衣は小さく区切った町(部屋)にそれぞれ暮らしていたのである。
 だから、小町も更衣の一人で、宮中の町に暮らしていたので、小町と呼ばれていたのではないかという。

 それでは、小町の他に「町」がつく名前を持った更衣がいただろうか。小町とちょうど同じ時代に二人いる。三国町と三条町である。三条町は紀静子(文徳天皇更衣。惟喬親王母)のこと。
 一方、三国町については二通りの説がある。『紀氏系図』には、静子の姉として種子(仁明天皇更衣。常康親王母)とあり、『古今集目録』では種子を三国町とする。もうひとつは『三代実録』に出てくる三国氏の娘。仁明天皇の更衣で三国氏の娘が密通の罪を犯したために、彼女が産んだ貞登が出家したという内容で、その三国氏の娘が三国町であろうという説。

 さて、『古今集目録』だが、紀種子についての説明は「正四位下。紀名虎娘。仁明天皇更衣。貞登母。登者仁明天皇十五子也。」とあって、『三代実録』では三国氏の子供だった貞登が、ここでは種子の子供になっている。どれが正しいのか。前出の『小野小町追跡』や『小野小町攻究(三好貞司・新典社)』は、三国氏を三国町だろうという。『古今集目録』の記述を信用できないとしているのである。
 たしかに、貞登を種子の子供とするのは間違いだし、仁明天皇の十五子というのも信じられない。しかし、これは『古今集目録』を作った人が、『三代実録』の三国氏娘の記事を種子の説明に加えてしまったために起きてしまったことではないか。「三国氏所生(三国氏から生まれた)」という表現を、「三国町の子供」と勘違いしてしまったのではないか。『三代実録』は貞登を三国氏の息子と書いているだけであって、三国町の息子とはどこにも書いていない。
 つまりこうだ。『古今集目録』の紀種子の説明「正四位下。紀名虎娘。仁明天皇更衣。」まではあっているが、そのあとの「貞登母。登者仁明天皇十五子也」は間違っている。
 ということは、片桐、三好両氏が三国氏を三国町というのも同じ間違いではないのか。 
 それでは、他の古典関係の書物では三国町を何と説明しているかというと、紀種子説が多いように思える。私もこちらを採りたい。

 そうなると面白いことに、三人の「町」がつく女性のうち、二人までが紀氏ということになる。後の一人は小野氏である。これは注意を要する。『古今集』の撰者紀貫之の意図が見え隠れしまいか。しかも、静子は惟喬親王の母。種子はその姉。小町が六歌仙なのだ。
 話は戻るが、小町が更衣であるという根拠として、三条町と三国町は必ず取り上げられる。この二人が更衣だったから、小町も更衣だっただろうと。そして「町」とは「后町」の事だろうと。だが、果たしてそれだけの意味しかないのだろうか。
 よく考えてみてほしい。更衣の通称を「—―町」というけれど、実際この名前がつくのは、歴史上三人しかいないのだ。このことは逆に、「――町」という通称は極めて特殊である、ということにを表してはいないか。本当に三人は「后町」から名付けられたのか。

【小町は遊女か】
 この、「――町」という名前について、民俗学では次のように解釈されている。すなわち「まち」とは「まつる」を語源としていて、女御や更衣は天皇の妻であると同時に、宮廷につかえる聖女であり、神と天皇の仲介者であったという。つまり、巫女なのである。(小林成美『評伝小野小町』)
 また、「町」は「待つ」に通じるので、それは小町が遊女的な性格を持つからであるともいう。(滝川政次郎『江口・神崎』)
 巫女も遊女も、この場合機能は同じである。遊女の起源が巫女であることは、既に書いた。「天皇=神」と考えれば、たしかに更衣は神に仕える巫女であり、遊女なのである。
 また、それらの説の論拠として、『古今集』の序文の小町について評した文、「小野小町は古の衣通姫そとほりひめりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なればなるべし。」の中に出てくる「衣通姫」を遊女の祖としている事にある。
 衣通姫は『古事記』では允恭天皇(五世紀ころ?)の皇女で、同母兄との近親相姦を責められて、自殺した姫である。兄の方は皇太子を廃され、流刑になった。また、『日本書紀』では、允恭天皇の第二夫人で、正妃(実の姉)に妬まれて遠ざけられたともいう。いずれにしても、恋愛関係の悲劇に巻き込まれている。

 衣通姫は『万葉集』にも歌が載っており、歌人としても知られていた。だから、一般に「衣通姫の流」とは、小町の歌の様が衣通姫ふうであるから、と解釈されている。しかし、民俗学では、この「流」を歌風の事ではなく、「職業上の共通点」であるととらえ、衣通姫も小町も共に天皇に仕える妻であり、巫女(聖女)であり、遊女であると位置付ける。
 遊女を「衣通姫の後身なり」と書くのは、大江匡房の『遊女記』である。衣通姫は允恭天皇の娘、あるいは皇后の妹であり、れっきとした皇族である。『日本書紀』で、新嘗の祭りの時に、祭りを取り仕切る座長に礼事として皇后から奉られたのが、衣通姫であった。衣通姫は神に奉られた「乙女」だった。祭りは一夜のことだから、衣通姫は「神の一夜妻」なのだ。この「一夜妻」はとりもなおさず、遊女と客の関係にほかならず、それ故遊女は「衣通姫の後身」なのだろう。(大和岩雄『遊女と天皇』白水社)
 また、衣通姫は近江の坂田に母親と暮らしていた。母の郷里なのだろう。坂田氏は息長氏と同族である。衣通姫は坂田・息長氏系の血を受け継いでいた。息長氏は近江の和迩氏と関係が深い。『日本書紀』雄略天皇紀には、和迩氏出身の童女君をぐなのきみが、やはり一夜妻の性格を持って書かれているので、和迩氏や息長氏は一夜妻を出す家系と考えてよさそうである。
 とすれば、和迩氏と同族の小野氏が猿女を宮廷に献上したのは、ただ単に猿女氏と近い場所に住んでいたからというだけではなくて、和迩氏、小野氏が伝統的に巫女を出す家系だったことを物語る。

 「そもそも、清和のころ、内裏に小町といふ、色好みの遊女あり」と記すのは、『御伽草子』の中の『小町草子』である。説話化された小町は、多くの男性と交渉を持ったとされる話と、多くの男性をふりつづけたという二通りの話があって、その一見矛盾している二つの像がまぜこぜになって、いくつものヴァージョンが生まれた。そこでついには「穴なし小町(つびなし)」とか、仏罰があたって年老いてから落ちぶれたという話(『卒塔婆小町』)ができるのである。
 内裏に遊女がいたのは間違いない。ただし、常に内裏の中に住んでいた女御や更衣と違って、遊女は町の中にいて、宴に呼ばれて推参するのである。宴は形としては単なる宴会であるし、彼女らは出張ホステスみたいなものだが、本来宴は神と催すものであって、宴に参加する人々は神と「直会」し、神と同じ食べ物を分け合っているわけで、その相手をする遊女は神(参加者。この場合、内裏の天皇や大臣たち)に奉仕する巫女なのである。遊女は元々、朝廷の機構の一部であった。

 説話の中の小町は、男を千人相手にしながらも、決して性行為までいかなかったとある。このことは、小町は生身の人間とは性交渉を持たないが、神とは遊ぶ遊女だということを表していて、『小町草子』の中で、小町を観音の化身だとするのは、彼女が巫女的性格を持っているということを意味している。でないと、小町=色好みの遊女=観音の化身、とはならない。

 しかし、国文学者は――例えば前掲の『小野小町追跡』では、これら民俗学的とらえ方を「とるに足らない」として退けている。なぜ、とるに足らないのか、その理由が書いてないので困るのだが、要するに「考え過ぎ。うがち過ぎ」というのだろう。『小野小町攻究』でも、「到底考えられない」と書いている。そこまで、深い意味があるとは考えられないというのである。
 しかし、当時は現代とはものの考え方やとらえ方、生活風習についても違っていたはずで、それらの風習が現代まで受け継がれているとは限らない。中には現代人には常識では考えられないような思考、感じ方があったのは当然で、例えば当時の人は怨霊の存在を真剣に信じていたし、そういう意味でも宗教と生活が想像以上に親密な関係にあったのである。
 古い時代ほど政治と宗教は混然一体となっていたし(中国風の制度を取り込んで徐々に薄まっていったが)、天皇の存在自体が宗教的なのである。天皇は国家機関の最高権威であるだけでなく、最高の祭主であり神の子孫(あるいは神そのもの)なのである。その天皇に仕える女御、更衣、女官は、ただの妻だったり、身の回りの世話をする侍女でないことは明白だ。例えば「三種の神器(天皇の権威の象徴)」を守護し、天皇行幸の際にはこれらを持って奉仕するのは、後宮の内侍である。
 以上のような事から、小町の「町」を遊女につなげるのは、考え過ぎでもうがち過ぎでもないと思う。

【町の名を持つ三人の女性】
 私は、「町」が巫女的性格(遊女的といってもよい)を表すからと言って、小町の名前の由来を、それだけに限定するつもりはない。依然として、「更衣→后町→――町」も捨てがたい。現に三条町も三国町も更衣だし、小町も更衣だった可能性は残る。
 ただ、三人の仕えた時期は、仁明、文徳と限られているし、三人は紀氏、小野氏であり、「――町」が出てくるのは『古今集』が初めてで、文献的にも限られているのである。つまり、それだけ特殊な名前なのだ。そこに貫之の何らかの意図が感じられるのである。
 だからと言って、「――町」という通称を、貫之が考えてつけたわけではないだろう。彼女らはやはり自ら「――町」と名乗っていただろう。
 小町は小野氏だから「町」を名乗るのはよいとして、なぜ紀氏の二人が「町」なのだろうか。それについては、面白い話がある。衣通姫は近江に関係が深く、近江の出身と伝承されているが、伝承の発祥地はなぜが紀州だという。紀州には衣通姫を祀る神社もある。小野神を守護神にした時宗の念仏聖たちは、紀州の熊野信仰や高野山とかかわっている。ついでに、小野小町が深草少将から逃げてきたという伝承も紀州にはある。
 そしていうまでもなく紀氏は紀州が本貫の一族なのである。

 という訳で、「「町」は単なる更衣の呼称ではなく、紀、小野氏系氏族が、自家出自の仁明、文徳天皇の更衣につけた呼称(大和岩雄・前掲書)」らしいのである。更にこれは「仁明・文徳・惟喬親王・光孝天皇(仁明天皇の皇子)」まで広げてもよい。光孝天皇は別名を「小松天皇」といい、その皇女を遊女の祖という伝承があり、それは「松」が「待つ」「祀る」に通じるからという。「待つ」は神(男)を待つ遊女を表す。また「小松=小町」の図式も成り立つからという。
 紀氏も小野氏と同じ性格を持つ氏族であった。そして、三人は紀氏にとって、貫之にとって、特別な意味を持った女性たちであった。紀静子(三条町)が産んだ惟喬親王が、一族の期待を受けながらも藤原氏の権力に敗れて天皇になれなかった。その怨念を象徴するのが、この三人なのである。その一例として、木地屋の郷、近江の君ヶ畑に伝わる系図では、惟喬親王の娘が三国町になっている。

 もしかしたら、小町も仁明天皇の更衣ではなく、もっと直接的に惟喬親王にかかわっていたかもしれない。どうかかわったかはわからない。もともとは仁明天皇の更衣だったが、途中で惟喬親王に仕えたとか。小町には孫がいたことはわかっているので、どの時期かは定かでないが、宮中を辞して結婚し、子供を産んでいるのである。その後で、再び惟喬親王に仕えたというのは、あり得るのではないか。また、そう考えた方が、貫之が小町を六歌仙に加えた理由もわかるような気がするのである。

【小町の「小」は何を表す】
 小町の名前になぜ「小」という字がついているのかについては、次のような説がある。


 

  1. 三国町、三条町よりも年下だから。

  2. 愛称。

  3. 未成女だから。

  4. 小町の姉に対する、妹。            (三好貞司・前掲書)

 1.については、もう説明はいらないだろう。同じ時代の三人の中で、小町が一番年下だったので、「年若い町」という意味でつけた。2.は、あまりにもつまらない説だが、案外これが真実かもしれない。3.はよくわからない説だ。小町もいつまでも子供だったわけではない。この説はいただけない。4.『古今集』には、「小町が姉」という人の歌が一首載っている。だから、姉に対して「妹の方の町」という説だ。しかし、「小町が姉」が小町と一緒に更衣として仕えたとか、姉の通称を「町」とか「大町」といったという文献は見当たらない。
 三好貞司は1.を有力な説として取り上げている。

 それに対して、大和岩雄は小町の「小」は「阿小」の略であろうという。(前掲書)つまり、「阿小町」というのが本来の名前だというのだ。
 『新猿楽記』に、「野干坂ノ伊賀専ガ男祭ニハ、鮑苦本ヲタタヒテ舞ヒ、稲荷山ノ阿小町ガ愛法ニハ、鰹破前ヲウセッテ喜ブ」とある。野干坂は京都の伏見稲荷の道筋にあり、伊賀専の専は、専女の事で、これは狐神の事である。阿小町は伏見稲荷の下社の女狐のことで、命婦ともいう。
 「あこ」とは、かわいい娘という意味である。東国では「てこ」といい、有名な真間の手児奈の「てこ」がそれである。手児奈は遊女である。
 「鮑苦本ヲ叩ヒテ舞ヒ」「鰹破前ヲウセッテ喜ブ」この祭りは、性戯の象徴的表現である。鮑苦本は女陰で、鰹破前は陽根を表す。
 遊女を「あこほと」ともいったらしいが、ずいぶん大らかな表現だ。しかし、当時の人はその中に宗教的な意味も込めていた。何度も言うが、遊女は巫女であり、稲荷神社の巫女が男根の象徴を揺らして祀ったように、遊女らの性行為は日常のそれと意味が異なり、非日常的な祭りなのだった。「一夜妻」としての性行為なのであって、神の妻となることと、客との一晩限りの逢瀬は同じ意味を含んでいたのだ。
 「あこ」がつく遊女は文献にもみられる。そのことから、小町は衣通姫の流れをくむ遊女的な女性で、それ故「(阿)小町」という名前になったのだという。

 この説は、小野小町の伝承をもとにした推理だから、小町の実像を探ろうとする研究家には受け入れられないかもしれない。小町が自ら遊女的な意味のある名前を名乗るのはおかしい、と思われるかもしれない。しかし、「あこ」というのは、それそのものは「かわいい娘」という意味でしかなく、小町がまわりからかわいいと思われていたから、こんな愛称がついたと思えば、さほどおかしくはない。
 それに、小野氏が代々伝統的に宗教とかかわってきた家系だとするならば、小町の「小」に巫女(遊女)を重ねても、かまわないと思う。古代から中世の遊女は、現代の私たちが思うような、単なる売春婦というとらえ方では不十分で、例えば遊女や白拍子を母に持つ皇族や貴族は大勢いるのであって、その時代においては蔑視されていなかったのである。

六歌仙関係図・まとめ

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