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【小説】アレ 第1話


あらすじ

偶然によって織り成された数奇な物語。異なる背景を持つ彼らは、小さな町で出会い、知らず知らずのうちにお互いの人生に影響を与え合う。それぞれが困難に直面し、乗り越えるために奮闘する。彼らを待ち受けるのは、決して簡単に解決できる問題ではない。しかし、運命的な出会いが彼らの人生を変える。
  


 森田稔もりたみのる

 全国高校野球選手権。大阪大会の一回戦。この瞬間が夏の全てだった。ピッチャーマウンドに立つぼくの手には、いつもより少し震えがある。緊張と不安が入り混じった気持ちで、深呼吸をひとつ。ぼくは全力でボールを投げた。

 投げた瞬間、バットとボールが激突する快音が響き渡り、瞼の裏で星が光った。
 その光はまるで宇宙の中で一瞬だけ光る流れ星のようだった。時間が止まったかのように周囲の騒音が遠のき、ぼくは意識を失った。



 気がつくとベッドの上にいた。病室は大部屋で、ぼくはその窓際のベッドで目を覚ました。窓の外から柔らかな陽が差し込み、保健室の匂いがした。
 頭には包帯を巻かれ、ネットを被せられていて、玉葱みたいな風貌になっていた。ぼくはあの一瞬の光景を振り返りながら、冷たい病室の天井を眺めた。

 数日後……。

 病室のベッドはほとんどカーテンで仕切られているけど、廊下側のベッドに高齢のおっちゃんが入院していることは知っていた。おっちゃんはイビキをかいて寝ている。時々、呼吸が止まるので、ふと心配になった。
 でもおっちゃんは昼過ぎに、静かに起き上がったようで、大きなアクビをしながら、
「あー、よう寝てたなぁ~」他人事のような独り言を発し、『ぷっ』と放屁した。

 ぼくは気にせず、黙って読みかけの本の栞を抜いた。ページを開いて、めくり、まためくる。読み進めていると、おっちゃんがガサガサし始めた。
 引き出しを開けたり閉めたりしている。閉めたかと思うとまた開けて、また開けたなと思ったら閉めて、閉めたなぁと思ったらまた開けて、開けたなぁ思ったら閉めて、「何回すんねん!」心の中で叫んでみた。

 おっちゃんはまだガサガサやっていたけど、ようやく静かになったなぁと思っていたら、ゲップの音が聞こえた。それからまたガサガサやりだし、
「えらい、すんまへん」
 おっちゃんが誰かと話す声が聞こえ始めた。出入りは頻繁にあるとは言うものの、騒がしい様子で、看護師と談笑する声まで聞こえ出した。
 ぼくは半分くらい仕切りのカーテンを開けた。

 おっちゃんは半身でリュックサックを背負い、片手に競馬新聞を握っていて、黒と黄色の阪神タイガースの帽子を被っていた。
 看護師に見送られる素振りで、出口に向かって歩き出したが、首だけを捩じり、眼球を斜め後ろのぼくに向け、促されるように前方を見返した。
「えらい、すんまへん」

 どうやらおっちゃんは退院するようだ!病室を出る間際まで、「えらい、すんまへん」と繰り返し、おっちゃんはそのまま姿を消した。ぼくはその姿を見届けてから、カーテンを閉め、ベッドに戻ってくつろいだ。
 ぼんやり天井を見ていると、カーテンの向こうから音がした。
「なんやろ?」
 ぼくはカーテンの方を見た。その瞬間、カーテンの隙間からおっちゃんの顔が現れた。口元に不気味な笑みを浮かべている。
「お兄ちゃん、今年は阪神アレやで」
 ぼくは驚いて一瞬固まってしまった。
「ほな、行くよってに、さいなら」
 おっちゃんは黒い歯茎を覗かせ、カーテンの向こう側に消えていった。また戻って来る可能性もあると思って急いでカーテンを閉じた。
 しかし、おっちゃんはそれっきり、戻って来ることはなかった。


 ♪ ウララ ウララ ウラウラの この世は私のためにある。
  ブラスバンドの演奏が頭に響いた。


  つづく


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