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【小説】アレ 第39話

 
 河川敷の日陰に座って、少年たちが野球をする光景を見ていた。すると、ボールがぼくの目の前に転がってきた。
「すいません、ボール取ってもらえませんか?」
 なぜか嬉しい気持ちになった。ボールを拾い上げ、少年に向かって投げ返した。昔、お父さんとやったチャッチボールの思い出が蘇った。

「ありがとうございます!」
 少年は礼儀正しく深く頭を下げ、元気よくグランドに戻って行った。後ろ姿を見送りつつ、ぼくも歩き出そうとしたその時、阪神タイガースの帽子を被ったおっちゃんが話しかけてきた。

「兄ちゃん、どこのファンや?」

 ぼくは鳥肌がたった。その阪神タイガースの帽子を被っているおっちゃんは、前に、同じ病室に入院していて、プリンをくれたおっちゃんだった。でも、ぼくのことを覚えていないようだった。

 おっちゃんは無言でぼくにパインアメを一つくれた。
 ぼくはオリックスファンだけど、阪神ファンのおっちゃんにそう言いにくく、嘘をつこうとしたところに、誰かが打ったボールが飛んできて、おっちゃんの頭を直撃した。
 おっちゃんはその場で白目を剥いて倒れ、失神した。
 すぐに救急車が呼ばれ、おっちゃんは急いで病院に搬送された。


 ぼくはなぜか、救急車のサイレンの音が聞こえなくなるまで、その場から動けないでいた。おっちゃんはぼくと同じ、一瞬だけ光る流れ星を見たのかも知れない。そんな事を考え、遠くにサイレンの音が消え去るのを聞きながら、ただ呆然と立ち尽くした。

 土手沿いに咲く桜の花は、風に吹かれると儚く散り、地面に積もった花びらは空中に舞い上がり、花吹雪を作って川面に浮かんだ。花びらは静かに流れていた。


(以後、佐々木香)

「お母さん、待った?」
「ううん、大丈夫。どうだった?」
 私は考え込むふりをしながら、笑顔で答えた。
「バッチリ、順調だって。性別分ったけど、聞けへんかった」
 お母さんは肩の力を抜いて微笑んだ。
「産まれるまでの楽しみやね。お腹空いたやろ、なにが食べたい?」
「ん~? お寿司」
 その日、私は産婦人科で診察を受け、帰りに親戚が経営する明寿司に立ち寄った。
 お店のテレビには速報が流れていて、ビッグフットの引退が発表された。 

 町中では号外が配られている様子が放送されていた。


(以後、鈴木兄妹)


「ビッグフット、なんで泣いてんの?」
 妹は首を傾げながらスマホを見ていた。
「阪神のおっちゃんに貰ったプリン、美味しかったなぁ」
 妹はものほしそうに言った。
「贅沢言わんとき」
 僕は笑った。
「ビッグフットなんで泣いてんねやろ?」
 妹はまた首を傾げていた。
「ん~? なんでやろか?」

 妹の病気は奇跡的に回復に向かっていた。僕の願いが流れ星に届いたんかもしれん。
 お母ちゃん。報告があんねん。別に大したことやないねんけど。僕な、魚、好きになった。

(以後、森田稔)

 黄金の風が吹く。それは誰にも見えず、ただ風が運んでくる。
 この世界中で繰り広げられるシーンを、ぼくたちは風に乗せて感じ取るだけだ。
 サイレンの音が遠く消え去り、ぼくは一歩を踏み出した。見えない明日に向かって歩き始める。

 人生というレールの上から脱線することもある。でも、諦めない! それは前向きな考えだ。思い切って諦める、その勇気も前向きな考えだと思う。
 失敗したら、必要だとするなら何度もやり直せばいい。結果がどうなるのか? それはやってみないと分からない。大切なのは、とりあえずやってみる。不確かな未来に一歩を踏み出してみる。そんな前向きな考え方の力を、ぼくは信じたい。



 一方、救急車は、病院に到着する寸前であった。

「脈も血圧も正常です。おじさん、大丈夫ですか?」

 意識が朦朧としている中、おじさんはぼんやりと口にする。

「今年は、阪神日本一…」

 つづく

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