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社会のど真ん中で孤独になるということ

先日、用あって新宿を訪れたが駅近くの人も車も往来の激しい道すがらに久しぶりにホームレスを見かけた。数年前、上京した頃は上野などにそうした光景を多く見かけ衝撃を受けた記憶があるが、現在ではホームレス地域生活移行支援事業のおかげか、ほとんど見かけなくなっていた。そもそもホームレスの多くは大都市を好むという。廃品回収や食べ物を拾うのも都合がいいからだ。今や排除アートや強制退去、テロ防止の意識など風当たりが強くなりアパートへ移行する人が増えている。

しかし、ある種ホームレスの生活で孤独に病む人はいないのではないか?常に人の目に晒され、自分が生きていることを通行人に、声をかけてくれる警官や支援団体に確認してもらえるためだ。多くの人のルーティンの中に組み込まれ、日常と化している。また、ホームレスの中でもコミュニティがあれば良くも悪くも人間関係の人間らしい鎖に繋がれる。ならばアパートへ移行し、1日を一言も誰とも交わすこともなく、人知れず孤立死をするよりも幸せなことのようにも思う。365日24時間を社会と接続しっぱなしのホームレスは軒並みはずれた社交性、外交性を兼ね備えているともいえる。

人間関係を合理化し過ぎた現代人は、人と関わるための口実をどう作るべきかがへんちくりんな課題としてある。最近、それを身に染みて感じるのは映画館である。1スクリーンあたり200人前後が密集し、集団体験をする。座席が区切られており、1人でありながら全員であり、同時代性の伴った集団制作された社会というコンテンツを一身に浴びるのだ。この瞬間はあらゆる物事と双方向的に混じり合い、孤独を薄めてくれるかけがえのない瞬間である。ここが自分の居場所だと、独りでも集団でもある、常に揺さぶりをかけられる状況はホームレスに似たものがある。そして寂しいからして映画館にいるわけではないと、周りが理解を示してくれている都合の良さも同様だ。

人体というサイズを超え、視線が高く高圧的な恐竜の化石の前に立つと人は強いストレスと畏怖を感じ、自らが社会的集団に属する一員であることを示す行為をとる傾向があるという。そうすることが人の幸せに寄与することは間違いがないのだ。人は人の幸せを自分でデザインすることはできない。紐づけられたプログラムに実直に従うことが人のせいぜいの器だ。そのために戦争や災害やテロや幾多の危機が集団的繋がりを強固にし、必要としてきた。そのような意味でいえば映画館は現代における防空壕のようなもので、ホームレスの方がよほど人らしい生活をしているのかもしれない。

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