小学生の頃毎日死にたくて、星空をずっと眺めてたころが忘れられない。
苦しいの9割は心の傷が原因ーーーー
苦しい人生だったーーーーー
それも、もう、終わりっ!!
いや、まぁ、対策がわかったというか、これまでの苦しみに感謝する段階に入ったという感じかな。
私の課題として、寂しさ、というものがある。未消化の傷。
幼少期に、母に毎日看病してもらっていたんだけどね。
私の視点からすると、母は私を見てくれてなかったと感じていたの。
父もそう。
「私」ではなくて、「娘」を見ていた気がしてた。
この違い、わかる?
私は、「私」を見て欲しかったんだけど、父も母も、「私」でなく「娘」を見ていたから、ずっと寂しかった。
兄だけだった。「私」を見てくれてたのは。兄は、「妹」ではなくて、「私」を今も見てくれてる。名前じゃなくて妹って呼んでくれてるけどさ。わかるんだよね、そういうの。
あぁ、ど真正面から「私」を見ようとしてくれてるって。
「私」を見てくれてるなーって思う時は、世界でたった一人の私の経験や感じてる微細な気持ちの揺れを知ろうとしてくれてるなって感じる時。
別に理解できなくても良いんだよね。知ろうとしてくれてるか?この姿勢や態度が、私を寂しさから救ってくれる。
どうしてそう感じたんだろう?
行動の源泉にある気持ちは何だろう?
私が人に対して質問するその言葉は、私の人生体験からきてる。
知りたい。その人のことを。奥の奥にある、その人だけの感性を知りたい。
それが私の生きる原動力にさえなってる。今も、これからも、ずっとそう。私はコーチとして、誇りを持って生きてる。命をかけてる。自分の仕事に対して。
で、両親は、私のことを今もずっと「娘」として見てくれてるから、私は両親と近づけた試しがない。心が触れ合ったことがない。この34年間で一度もない。学生時代からの友達や、社会人になってから出会った職場の先輩、後輩、お客様、先生、といった存在の方がよほど心が触れ合ってきたなぁと感じてる。
私は幼少期にざっくり開いてしまったその心の傷「寂しさ」を、社会の人との交流を通してようやく癒せそうな気がしてる。
両親は、私にとっての養育者ではあるけど、私が思い描く心の交流ができる人じゃないんだよね。権力と地位、世間体を振りかざして、さもスゴイ人を演出しようとしているその背景には、傷つきたくないという、今も震えてる小さなインナーチャイルドがいるんだなって私の方が理解してしまった。
そういう人生を歩みたかったのかな、とも思ったりする。いくらでも成長する機会はあったのに、自らなんどもそういう機会をスルーしてきたんだろうなって。
私は今までそんな状況で育ってきたから、これまでは寂しさつながりというか、タナトス共鳴みたいなのが起こっていて、ネガティブで人と繋がるという状況だった。寂しさで埋め合う共依存関係。私が下か、上か。そういう関係性を作って密着していた。
でもね、もうやめるの。それ。もう良い。私は羽ばたこうと思うんだ。私は自分しか経験していない、貴重なあれこれがたくさんある。
小学生の頃毎日死にたくて、星空をずっと眺めてたころが忘れられない。
私の命の源泉はそこにあると思ってる。
上を仰ぎ見ると、必ず毎日、約束したように登ってくる宙がある。その安心感は絶大だった。態度がコロコロ豹変する両親に比べると、天体は私にとっての母そのものだった。
この気持ちが共有できる人だけで良いやって思えるようになった。
知ろうとしない人、諦めている人は、もう良い。知ろうとしてくれる人とだけ、繋がりたい。そんな気持ち。
実際、婚活していて5人会ううち、貴重なデータも取れたしね。
うち2人は、私と話しているようで、自分の”内面”に向き合っていた。
うち2人は、私と話しているようで、自身の”オス”と向き合っていた。
そして1人は、「私」を見ようとしてくれた。理性をきかせて。
あと5人くらい会えば、また違うデータも取れるんだろうけど、ひとまず私の体力的にここら辺で区切りかな。私は、仕事で婚活してるわけじゃないから、「私」をど真正面から見てくれる人じゃないと嫌なんだよね。
仕事で接するなら、彼らの鏡になるし、そのまま、彼らの成長にとって必要な言葉を返すんだけど。そういう機転を利かすスイッチは切った状態で、色んなデータをとった。
彼らは真正面から私に向き合ってくれたんだろうけど、もうね、わかっちゃうんだよね。好き好き言う人は、「私」じゃなくて「メス」として見てくるしさ。都合の良いタイミングだけ会おうとする人は、そのそも「私」じゃなくて「モノ」として見てくるよね。消耗品?みたいな感じかな。私を使ってどうしたいんだろうこの人は、という目線で私も観察せざるを得なかった。
愛してるという言葉は本当に薄っぺらくて、正直、この人たち一体どんな気持ちでこれから生きて、死んでいくんだろう?っともうなんか憐れみな気持ちになったりする。
わっかんないんだろうなーーーー!!愛とやらを。知らんのだろうね、真実の愛を。愛するからこそ理性を利かせるものなのに、オスが作動してしまった彼らは突進するしかなかったのかな。私は「メス」として彼らの生態系を観察していたけれども。
彼らに、「あなたのことを知りたい」って言ったってさ。もう脳が麻痺ってるから答えようもないんだよね。僕はこう思っています、なんて、内観もしてないし語彙力も磨いてないし、そもそもそれを伝えるよりも「好き」だの「愛してる」だの「付き合おう」だの体の関係を持ちたくて仕方なくて「愛し合いたい」まで言ってきたしなぁ。
なんだかななぁ。人間とは。ホモサピエンスが存続してきた歴史を、彼らと接して、観察することでほんの1ミリだけ、垣間見えた気がする。こういう頭のネジが飛んでしまうオスがいるからこそ、人類は今も続いているのではなかろうか。これくらいに強烈な生存本能がないと、滅んでしまうよね。そこに妙に納得した。
とはいえ、私もメスだし、メスとしての機能も受け入れる。受け入れることで、人間として生まれてきた喜びも受容できると思うし。ただ、枠組みは作るかな。人との距離感の取り方って難しいけど、私も理想はある。そういう理想というかフィーリングが合う人が良いよね。センス。感性。譲れないもの。
経済力、見た目、そんなものよりも、感性がトップにくるな私の場合。
だから、私はこれからドドンと感性を広げていくよ。たくさん、傷ついてきたことも楽しかったことも、幸せだったこと、苦しかったこと、そこから得てきた感性を広げてさ。
「私」を知ろうとしてくれてる人たちだけと繋がりたい。そうでない人は、別に私じゃなくても良いと思うしね。私のことを嫌いになる人なんていっぱいいるだろうし。こんな小難しくて頭が堅いことは嫌だ、今を楽しみたい人もいっぱいいるでしょう。いいんじゃない?それで。って思うよ。
私は、私。
この地球上で、どこにいても、私は私だよ。
どこにいても、いつでも。
「私」がどんな感性で揺れてて、それによってどんな風に生きているのか、その生き様に関心がある人だけで良い。そういう小さな小さな世界の端っこが私は好き。安全基地を築いていくんだ!
丁寧に、丁寧に、レンガを積んでいってね。
これまでと生き方が全く違うから、正直戸惑ってるんだけど、でも、助けてくれる人は沢山いるし、大丈夫って思えてる。
私、今、すごく幸せ。大好きな人たちだけに囲まれて。お互いを受容し合えるしか周りにいないの。すごく心地良くって!この最高な感じをね、広げていくんだ。
大学時代のサークルみたいにね。
当時は存続すら危うかったけど、真心込めて運営して、その後もずっと続いているサークルを見ていたら、私は間違ってなかったんだって思えるから。
心の中に、私はもう仲間が沢山いる。同じ志を持った人たちが沢山いるから、心強くってね!そういう仲間を沢山集めて。心から豊かな人生を味わって生きていく、その選択をしていける人が少しでも増えていってくれたら。私は楽しいなと思うし、嬉しいと思う。