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本当は人との関わり方を知らないのかもしれない

昨日3月8日は国際女性デーでした。
(ほんとは昨日にあわせて投稿したかったですが、書ききれなかったです)

多様性などについてこのnoteの中でもちょこちょこ書いてきましたが、直接的に男女格差や男女平等という言葉について書くのは、とてつもなく難しくて悩みます。(なので、そもそもnoteに書いて投稿するかも迷って進まなかったです)

多様性のある社会が~~云々といってるのに、身近なジェンダーについて書くことに躊躇いや難しさを感じてていいのか…?とか思いました。が、じゃあ、なんで自分が男女格差やジェンダーギャップについて書くことにここまで難しさや躊躇いを感じるのか?

難しさや躊躇いの背景は、やっぱり不安だと思います。

なら、その不安はなにか?

ひとことで「自分は男性だから。」だと思います。

やっぱり、ジェンダーやフェミニズムについての話だと男性という特権性について指摘されるし、まだ男性優位である今の社会を前提に考えると男性である自分という存在そのものに語れる言葉の限界点があるように思います。

どこまで丁寧に言葉を探したとしても、男性である自分の言葉は「男性であることに守られた言葉」であるという限界を超えられないのではと。

昨日は街頭での国際女性デーの啓発活動をご縁あってボランティアもさせてもらいました。今まで関わったこともなかったので新しい経験を少しだけさせてもらってよかったですが、これを書くことによって「国際女性デーの啓発を手伝う男性」というラベルがつくことにもなります。そうなるとやっぱり自分の中にはモヤモヤが生まれます。


じゃあそもそも、男性とか女性という属性をあまり強調することなく、ひとりの人と人という関係性の中で関わっていくことは不可能なのか?

男性は仕事、女性は家事という固定観念があるけれど、パートナー同士で対話して自分の考えや意思を共有し合っていけばいい。会社やビジネスであれば、それぞれ社員または働く人としてどんなキャリアを望むのか、どう仕事をしていきたいのか話し合いながら職場をつくっていけばいい。言葉にすれば、たったそれだけのシンプルなこと。

もちろん、実際には意見がぶつかったり、互いの主張をそのまま実現することはできないかもしれないから、折衷案や代替案を決めなければいけないかもしれません。でも、そのために性別やセクシャリティはそこまで重要ではないはずです。

そうなんだけど、実際にはそれが難しい。できない。


それって、実は“私たちは人との関わり方を知らない”かもしれないんじゃないかと思います。

お互いに自分の意見を言葉にして、伝えて、耳を傾けて、話し合っていく。そういう関わり方をなにも知らないのかもしれません。
それだから、性別や属性、障害の有無だったりそういう分かりやすい判断材料から推測してしまう。ひとりひとりと向き合って関わることは面倒くさいから、ひとまずマジョリティや特権的立場にいる自分たちが不自由なく生きていられる社会であれば問題ない。わざわざそれ以上のエネルギーを費やしてまですべての他者と関わる必要はないとしてしまう。

とりあえず自分は無難に生きていられるから、「他者との関わり方を知らない」ことに気づきにくくなる。自分のいまの現状は、だれかと関わることを諦めることと引き換えに手に入っているのかもしれないのに。そして、関わることを諦められた側の人は抑圧され、差別され、関わることを拒絶される。

だから、いまの私たちに必要なことは他者との本当の関わり方を知ることかもしれません。私自身もそれを知りたいです。

それが多様性のある社会をつくる一歩目な気がします。


今回もお読みいただきありがとうございました。

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