渥美半島石井農園

渥美半島石井農園

最近の記事

メロン世界一を目指す。

世界一を目指そうとする性格はむかしから変わらない。よいと言う方法はすぐやってしまう。 農業は自然の仕事というイメージがつよい。が、実は半分は人がコントロールしている。 コントロールの方法は、水やり、ハウスの開け閉めならイメージがつくと思うが。実はかなり深い部分までコントロールしている。 あらゆる面で敏感、かつ後戻りが効かない純系メロンでそれらを次々と試すことはかなり危険だ。 しかし、メロンの世界一になろうということは、誰も通ったことのない道を歩むことでもあり、一日一日

    • 曇りでも。

      白マルチで光を集めます。 これで葉と葉の間、節間をつめることでたくさん葉っぱをつけることができるのです。 葉の数が味に影響します。 まずは健全にそだてることが肝心。異常気象であろうと曇りであろうと、技があります。 では。

      • 古田メロン2024出陣

        偏西風の影響を受けて波乱のスタートの苗づくりでしたが、難を乗り越えて植え付けまできました。 自分がへんに度胸があるのは、死ねばそれだけの漢だった。という運もなければ大成しないというシンプルな発想からくるのであります。 こと古田メロンにおいては、幾度となく運の良さがなければ5作目をむかえることはありませんでしたが、今年のスタートはもっとも運が試された始まりでありました。偏西風の蛇行によりスペインのオリーブ、アフリカのカカオなどが大打撃をうけたとニュースをみていましたが、まさ

        • 農家の親父。

          今、農家の平均年齢は68歳。これはうちの親父の年齢だ。いまは野菜が高いの安いの言ってるが、平均年齢がこの状態では、近い将来すさまじいショックがこの業界におこることは間違いない。 バブル期の農業経営を謳歌してしまった親父世代は、さも今の状況を何かが助けてくれるのでは?とわずかながらの期待を抱いている。農業の衰退は国家の衰退、は本当のことだが、資本主義社会こと日本においては工業とほぼ立場は変わらないだろう。つまり、農業を工業ベースでやれないのならダメという現実がある。 工業ベ

          古田メロンは私のケーキ。

          古田メロンという名はなかった。純系高松を古田のおばちゃんが40年間種取りしたものをゆずりうけたので、その功績を讃えるために私がつけた名である。 古田メロンを作れば良いのではない。純系アールスメロンは実はたくさん種類がある。菊の裏作に始まる渥美半島では、その夏系品種が次々と名を挙げる激戦区。なかでも高松はうまかったと渥美の農家はいまも語る。ところが、製品は金になるので売ってしまい、クズ玉に砂糖をかけて食べるなど、素材の吟味がなされていたか疑問が残る。 洗いざらいするため、さ

          古田メロンは私のケーキ。

          メロンを作るほど味落ちする!?

          えーっと思いますがこれあるんです。メロンのあの複雑な味には多様な成分が含まれているわけですが、それらが一作によって土からドバッとなくなるんです。 2作、3作もすれば無味状態に、、、。なので糖度重視の品種が重んじられるのもわかります。 昔は味落ちをふせぐために山の土を持ってきて入れ替えをしたそうです。メロンの単価が高かった時代ですね。 味落ちをどう防ぐか。それは吸いまくってなくなったすべてのミネラルを必要な時にプレゼントしてあげることです。これに気づくのに3年かかりました

          メロンを作るほど味落ちする!?

          新城湯谷温泉。

          古田メロンの栽培がはじまり、24時間神経がパリパリ、、。はじめたころは知らぬが仏であったが、5年目のいまはその逆だ。 すこしその神経をいやすため湯谷温泉へ。 家族で気に入った良泉で、もともとの冷泉をしっかりあっためることでグッと魅力を増している。 湯の風HAZUの食事付き日帰り入浴がオススメだ。こないだは、はづ木に泊まった。薬膳料理と貸切風呂という新城の珍美を味わせていただいた。 この近くにある五平餅は、おばちゃんたちが練りまくった米を炭火で丁寧に焼いてくれる。世界は

          古田メロン2024

          【古田メロン2024】 いよいよ始まる。 3年目に半分以上がダメになり、4年目の去年。辞める前に、あと一手実行したところ、ついに理想とする味を実現した。 料理人の観点からものづくりをみる私にとって、まるでケーキのようにメロンの味をコントロールすることを夢に挑み続けた。 近年の農作物は基本的に根が強い。根が強すぎるとこちらのコントロールが効かず、理想的な味をつくりだすことはできないだろう。 根の弱い純系品種をセレクトした。しかし病気に弱く 、半分以上枯れる。枯れを防ぐ

          農という営み。

          農業は生き物を相手にする産業なので、工業化できない営みだ。 しかし、現代では工業並みに生産していかないとまず生き残るのは難しい。 私でさえ、仕事場に立つときは分刻みのスケジュールで立ち回る。 ウクライナとロシアのこれまでの100年を振り返れば、農業がいかに大切な産業かわかる。 現代の日本ではおそらく農業はできればやりたくない仕事ワースト1かもしれない。 そんな中、私自身の食を見直すことをはじめた。 米、味噌、豆、天草などで郷土料理を味わう日々。 無論国産資源を使

          銀座を目指して。

          6年前。銀座の鮨を目指して台所で5年ほど修行をしておりました。 渥美魚市場で競り落とし、氷温庫で熟成。いろんなことがあったけど、シャリと鮨の順番がもっとも勝負どころ。酢も腐るほど試したけど、その地の魚の味の濃さにより変える。 あー本当色々やったね。 私の配合を公開しておきます。 一合150gの精米に対して、酢38.5cc 塩3g 甜菜糖グラニュー糖1gです。

          銀座を目指して。

          トマトエボリューションvol 6

          トマトエボリューションvol 6はじまりました。 育種中のため、今年も非売品です。 トマトは、ヨーロッパ人によって大西洋を横断してアメリカ大陸へ移民と共にもどり、今日まで進化を遂げてきました。古田メロンと同じで大体人間がうまいと種をとってきたものは病弱です。 とまあ、今回5品種ほど栽培しますがこれらを掛け合わせてさらに美味しくしようと言うのが目的です。 これらの品種は中世の農業の息吹が強く、アメリカ本国でもほとんどの人が食べることができません。 これまで50種類ほど

          トマトエボリューションvol 6

          天明の大飢饉。

          江戸時代に起きた天明の大飢饉。 夏なのに冬のような寒さが続いたそう。原因はいまだに特定できず。 関ヶ原以後、藩の中に押し込められた大名たちはこぞって干潟を干拓し新田開発をおこなった。これゆえ人口は1200万人から3000万人となる。まわりすべてハゲ山になるほど木を切り倒して肥料にした。 しかも米を大阪で金に変えることができたようで、さらに新田開発は進む。 そこで宝永大地震の津波が田に押し寄せる。そして天明の大飢饉。 農家は新田開発より、反収をあげる知恵を磨いた。読み書

          古田メロンの種。

          古田メロンの種。種はひと月ほどしっかりと乾燥させ冷蔵庫で保存します。 昔はメロンの種を炒ってたべていたようですね。私はやりませんが笑 種をとる。これは英語でheiroomといい代々受け継がれたという意味です。販売されている野菜の99%近くはf1種という営利栽培用交配種です。 古田メロンはそれと違いheiroomなので商業としては向かない品種とも言えます。 現代農業についてゆくには、とにかく量をとらねばなりません。heiroomは中世の農業で使われていた品種とも言えます

          古田メロンの種。

          暑い、、。

          今日テレビをつけると、温暖化から沸騰化の時代がきたとニュースがながれていた。 いまは収穫する作物がないけど、ハウス栽培もこの時期無理な時代がきたのかもしれない。 5月ころにはすでに遮光剤を塗るし(費用増)中に入る人間だって大変だ。 現在の人口は化学肥料が支えている。空気中の窒素を微生物が体内に取り込んで死に、肥料にすることがアメリカで発見されたのがはじまり。 中世ヨーロッパでは、パンとコーヒーを労働者に与え生産性を増してきたが、空気中の窒素を現物化できることがわかった

          おくごおり。

          三河国奥郡。 みかわこくおくごおり、と読む。私のくらす渥美半島は戦国時代にこう呼ばれていた。 最初はなんだ?と思っていたけど、おくごおりって豊かな場所を意味するらしい。 戦国時代であってもアサリがとれて野菜があって、おそらくほとんど移動しなくても良いものが色々食べれたからじゃないかな。 沖縄戦の直後、マスクメロンが渥美半島の旅館ででたというし。 存分におくごおりの恩恵にあやかっていきたいな。奥三河って本来は渥美郡をさしてたんだね。しらんかった。

          続味のライン。

          味のライン。これは音楽に似ている。 最初はオーケストラとか思っていたけど、特にピアノがしっくりくると思う。 心地いいって思えるラインを生き物を通して表現するってできるのって思ったけど、今作の古田メロンでようやくそれが完成した。 4年。これまで漁も鮨も5年で一区切り。そう思うと研究課題を全部ためしてきた4年ってそうとう色んなことがあった。 舌の厳しい父がはじめてシャリを褒めてくれたのが4年目だった。そして古田メロンをこれまでは1センチ角しか年一食べなかったのが、初めて4