創造性と宗教について

纏わりつくような湿気に目をつぶれば、6月の初めは散歩にもってこいの時期である。

私の散歩のコースは墓地の横を通る。
昼に墓地を見ても、墓地だなぁと思うくらいだが、夜はそうはいかない。
夜の墓石は心なしか薄明るくて闇の中でぼぅっとしている。
豊かな想像力がゆえに、墓地から恐ろしい存在が飛び出してきたり、何か得体のしれない不吉なものが私の体に憑りついたりするのではないかと恐ろしくて仕方がない。
だから今日私はコースを外れてみた。

そのいつもより大回りなコースを歩いているときに考えたのは、創造性についてである。
私は自分の五感をもってしてしか世界と接することが出来ない。
視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚の5つ。
あなたの目の前に聖書が置いてあるとしよう。
そこであなたの認知はエラーを起こしてしまう。
聖書がサンドイッチに見えて、サンドイッチの匂い、サンドイッチの味、サンドイッチの触り心地になってしまった。
するとあなたは、周りからどれだけそれが聖書だと言われても、それをサンドイッチとしてしか認識できない。
このように私は、私たちは、五感を通じてしか世界に触れられない。

そこで私は創造性というものは、その五感で得た情報に対する意味付けであると思う。
サンドイッチの匂いを嗅ぐと卵ペーストが腐っていそうだから食べるのが嫌だなぁとか、食べてみると思ったより全然おいしくて向こう1か月は毎食これでもいいなぁとか。
上で出した夜の墓場のことについても同様だ。
これは広義の創造性であると私は思う。

で、題で触れているが宗教はどうなのだろうと思った。
私は宗教というのは他人の五感を通じての意味付けであるように思えるのだ。
右の頬を打たれる→左の頬も差し出す
この矢印の間には私たちの創造性は関与しない。
宗教というのは行動規範で、信仰というのはその規範のインストールだと思う。
私たちの創造性が及ばないことへも行動規範を基にすれば対応が出来る。

これはだから宗教が良いか悪いかという話ではない。
ただ私は私の創造性を大切にしていて、私にとっては私の創造性こそが宗教なのである。


いつものコースを外れて私は水田の横を歩いた。
蛙の鳴き声が湿った空気で揺らいでいた。
私は声が聞こえるが姿の見えない蛙が死角から一斉に襲ってくるのではないかと想像した。
その想像は恐ろしかった。
恐ろしいから早足で田の横を過ぎた。
恐ろしいのは蛙のいる田の横を歩いたからだった。
だから次は恐ろしくないようにまたコースを変えようと思った。
私は私の創造性によって歩くコースを変えていくのだ。



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