短編小説『カラオケ行こ!』
大学三年の夏、私は初めてカラオケに行った。
高校時代から仲の良い友だち四人でバーベキューをした帰り道、かけるが車を走らせながらポツンと言った。
「カラオケ行かね?」
私の身体がビクリと反応する。拒絶反応というやつかもしれない。ほかの友人たちはすぐさまかけるの提案に賛成した。もうすでに最近はやりの曲を口ずさんでいるやつもいる。乗り気だ。断れる空気ではない。車内ではさっきからスピッツの『青い車』が流れている。
できることなら断りたかった。なんせ私は生まれてこの方、一度もカラオケに行ったことがない。家族とすら行ったことがない。今思い返すと、両親が何か曲を口ずさんでいた覚えすらない。弟を寝かしつけるときの子守歌すらも記憶になかった。その代わり、絵本をたくさん読み聞かせてくれたことは覚えている。だから、今でも私は本が好きだ。文字の世界に触れることがたまらなく好きだ。だが、音楽のこととなるとだめだ。音楽を聴かないというわけではない。私だって、最近はやりの曲くらいは押さえている。ただ、とりわけ好きなアーティストがいるわけでもない。だから私のプレイリストはいつだって質素なものだった。そんなことを考えているうちにカラオケ店に到着していた。私は覚悟を決めた。
受付を済ませ、指定された部屋の前に立つ。かけるが扉を開けると、そこは、たばこのにおいがかすかに残る薄暗い空間だった。私は若干の恐怖を感じていた。おそらく友人たちには、気づかれていない。みんな適当に席に着く。私はたくみの横に座った。席に着くとすぐさまじゃんけんがはじまる。恒例なのであろうか、じゃんけんで負けたやつから時計回りに歌うらしい。私はいつも通りチョキを出した。
負けたのはあかりだ。私たちのグループの紅一点。とりわけかわいいというわけではないが、気が合うため、いつも一緒にいる。私が彼女を意識していないと言えば、嘘になる。彼女の笑う顔が好きだった。かけるとたくみが彼女のことをどう思っているかはよく知らない。知りたいとも思わなかった。
あかりからはじまり、たくみ、私、かけるの順で歌うこととなった。早速、あかりが曲を入れる。知らない曲だったが、おそらくカラオケの定番曲なのだろう。かけるとたくみの盛り上がりをみていたらわかる。だが、わたしはあかりの声をほとんど聴いていなかったと思う。あかりの恥じらいながら歌う姿に目を奪われていたから。あっというまにあかりの曲が終わり、たくみが曲を入れる。自分の番が近づいてくる。唾をのみ込んだ。
たくみが入れたのは星野源の『地獄でなぜ悪い』という曲だった。またまた知らない曲だ。有名なのだろうか。イントロが始まる。
圧巻だった。美しい曲だ。タイトルに「地獄」と入っているのに底抜けに明るい。画面に映るMVも曲にはまっているのがわかる。私はとくにサビに惹かれた。
嘘でできた世界が
目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つ
作り物だ世界は
目の前を染めて広がる
動けない場所から君を同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ
どんな経験をしたらこんな美しい詞をかけるのだろうか。心に沁みわたった。普段はおとなしい、たくみの歌だったからかもしれない。私は慌てて自分のプレイリストにこの曲を追加した。ああ危ない。こんなにもいい曲を聴かないまま死ぬところだった。心の中でたくみに感謝した。
そして、遂に私の番がきた。震える手を押さえながら曲を入れる。BUMP OF CHICKENの『天体観測』だ。この曲ならみんな一度は聴いたことがあるだろうと思った。口ずさんだことだってあるのではないか。私も高校時代、部活おわりに、ひとり暗くて物騒な夜道を自転車で駆けるとき、怖さを紛らわすために大声で歌っていた。なんとかなる。そう信じた。
だめだった。声がうわずる。そもそも声が思うように出てくれない。私の顔はなによりも紅潮している自信があった。昨日食べたイチゴより紅かったのではないか。なんてことを考える。部屋が暗くて助かった。友人たちが哀れみの視線を送ってくるのがわかる。かけるにいたっては笑いをこらえていた。あかりの方は見ないようにしていた。ただ、目に入ってしまった。あかりの目は冷たかった。ひとつの恋が終了した音がした。バキン、そんな音だった。
曲が終わると、しばしの沈黙が訪れた。私は震えていた。かけるが笑みを噛み殺しながら私になにか声をかけてきたが、何も聞こえない。宇宙空間にいるみたいだ。なにも聞こえない無の空間。宇宙飛行士にならずとも、宇宙には行けるのか。そんなことを考えていた。
それ以降のことはあまり記憶になかった。宇宙旅行に行っていたのだから当たり前だ。かろうじて覚えているのは、二周目が回って来たとき、私がのどの調子が悪いだのなんだのと言って、パスしたことだ。それを友人たちは受け入れてくれた。明らかに気を遣われていたことがわかる。気を遣わない仲であることが私たちの強みだったのに。私のたった一曲でそれを壊してしまった。大げさだろうか。いや大げさではなかった。私たちが集まる頻度は明らかに減ったし、集まったとしてもカラオケに行こうなどと提案する者はいなかった。こうして私の大学生活は幕を閉じだ。今となっては苦い思い出だ。
社会人になって三回目の春が訪れた頃であろうか、上司にカラオケに誘われた。私は当然のごとく拒絶した。カラオケと聞くだけで鳥肌が立つ体質になっている。行くわけがない。だが、しつこいのが私の上司だ。そのしつこさを仕事に活かせと私は思う。結局、私が折れた。五万円あげると言われたからだ。お金には勝てない。
カラオケ店に着いた。くしくもあの思い出の店と同じ場所だ。すこし笑った。受付を済ませ、部屋に入る。懐かしいにおい。上司がすぐさまボリュームを調整する。これは後輩である私の仕事なのかもしれない。しかし、身体が動かなかった。あの時と同じだ。変わってない。まだ私はカラオケを恐れている。なさけない。
上司が先に曲を入れる。Mr. Childrenの『CROSS ROAD』だ。なかなかいい曲だった。「傷つけずには愛せない」とはうまくいったもんだ。評論家きどりでそんなことを考えていた。
私には恋愛経験がない。だから歌詞の深さなんてわかるはずもない。わかるはずもないがいいものはいい。あの時となんら変わっていないプレイリストに曲を追加した。久しぶりに開いたプレイリストの中身が目に入る。『地獄でなぜ悪い』252回再生。
上司の歌声はどうだったかというと、うまかった。歌いなれているのがわかる。ただ、歌うつもりもない私には、関係のないことだった。私は得意の接待で、永遠に上司に歌わせるつもりでいた。なんとかなる。そう信じて。
もちろんだめだった。上司が三曲ほど歌い終わった後、お前も歌えと催促された。私はなぜこんなにも楽観的なのだ。なんとかなると思って、何とかなった試しなんてないのに。自らの浅さを痛感する。だが、そんな自分が嫌いではない。ああ、なんておめでたい。
震える手で曲を入れる。最近お気に入りの曲。Vaundyの『踊り子』。
もちろん歌えるはずもなく、私は久しぶりの宇宙旅行にでかけた。また、宇宙に来れるとは。なんだか感慨深かった。上司が私になにか問いかけている。無論、私にはその声は届かない。ほっといてくれよ。私は今、無の空間に浸っているのだから。
しかし、ひとつ気づいたことがある。それは哀れみの視線を感じなかったことだ。あの時とは違う気がしていた。宇宙旅行を終え、私は上司に視線をやる。すると、彼はこんなことを言った。
「お前、歌下手だな。」
ど真ん中ストレート。痛かった。だが、彼の言葉には続きがあった。
「でも、いい声してるよ。練習すればうまくなるぞ。ダイヤの原石を見つけた。」
この言葉を間にうけた楽観主義者代表の私とおちゃらけ上司の地獄の練習の日々がここからはじまるが、おもしろい話ではないので割愛する。ごめんね上司。
上司との特訓を経て、私の歌声はふつうに聴けるレベルにまで到達していたと思う。だからといって誰かにカラオケに誘われるわけでもなく、誘うこともしなかった。歌がちょっとうまくなったからと言って何も変わらない。それが現実だ。上司との練習の日々はつらくもあり、楽しくもあったが、それだけだ。仕事に活かせるわけでも、生活に活かせるわけでもなかった。でも、無駄な時間だったとは思わない。確かに必要な時間だったと思うようにしている。そうでなければ涙がこぼれてしまうから。普段と変わらぬ毎日。そんな毎日に刺激を与えてくれるのは、やはり恋だ。
久しぶりにかけるから連絡がきた。おそらく三年ぶりぐらいであろう。また、四人で遊ぼうとのことだった。四人ということは、あかりもいるのか。実をいうと、あの悲劇のカラオケ以来、あかりとは一度も口をきいていなかった。怖くて話しかけられないでいた。だから、会いたくなかった。
しかし、あかりを忘れることはできていなかった。バキンと音を立てて終了したはずの恋は終わっていなかった。終わらせることができないでいた。
二日後、どこで遊ぶか決めるため、四人でマックに集合した。マックに来たのは学生の時以来だ。ポテトのにおいが鼻先をくすぐる。
久しぶりに会った友人たちはみな大人びていた。大学を卒業して三年ばかりの時がたったのだから当たり前だ。私もすこしは大人になれているだろうか。たくみもかけるも結婚したらしい。道理で風格があるわけだ。あかりはというと以前よりも数段きれいになっていた。だが、あのときの面影も残っている。きっと今でも私は彼女が好きだ。
かけるが言った。
「じゃ、どこで遊ぶが決めますか。一人一個ずつ提案しよう。おれは温泉に一票。」
「ぼくは動物園。クジャクを見たいんだ。」
「わたしは海行きたい。去年の夏行けなかったんだよね。男三人と海とか夢でしょ。」
当然、カラオケに行こうという者はいない。相変わらず優しいやつらだ。彼らが私と距離を置いたのが私の歌が下手だからではないということは理解している。避けていたのは私の方だったのだから。それなのに歩み寄ってきてくれた。ほんとにいいやつらだ。今なら、彼らと対等になれる気がした。今の私を見てほしかった。何よりも彼らと一緒に歌いたかった。そんなもんだ。カラオケなんて。歌がうまいとか、下手だとか関係ない。楽しい。それがすべてだ。そんなことに気づくのに私はあまりに時間をかけすぎた。
「あのさ」
唾をのみ込む。今度は私の声はうわずらない。大丈夫だ。
「カラオケ行こ!」
そして、このカラオケをきっかけに、私とあかりは結婚することになるのだが、それはまた別の機会に話すことにする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?