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『父ありき』:1942、日本

 堀川周平は妻を亡くした後、一人息子の良平を男手一つで育てている。周平は中学の数学教師として勤務し、良平は小学六年生になった。中学では修学旅行の時期が近付き、周平は生徒たちに注意点を説明する。
 修学旅行へ出掛けた一行は、鎌倉の大仏の前で集合写真を撮影した。周平は生徒たちと共に、旅館に宿泊する。生徒の吉田は注意事項を無視し、ボートに乗って芦ノ湖へ出た。周平は他の生徒から知らされて捜索に行くが、吉田はボートの転覆事故で命を失った。

 責任を感じた周平は辞表を提出し、翻意するよう同僚の平田が説得しても考えを変えなかった。彼は良平を連れて故郷の信州へ戻り、二度と先生をやるつもりが無いことを話す。「ここで住もうと思うんだ。お前もこっちの学校に変わることになると思うが、いいか」と問い掛けると、良平は黙ってうなずいた。
 周平は村役場で働き始め、良平は友達が出来て遊びに行くようになった。周平は中学受験を控える良平に勉強を教え、「お前さえ一生懸命ならば、中学だけでなく、その上の学校にでも、やらせてやる」と告げる。周平は良平と渓流釣りに出掛け、「中学へ入るとなると、寄宿舎へ入らんといかんな」と言う。良平が寂しそうな表情を浮かべると、彼は「夏休みには帰って来られるさ」と述べた。

 中学に入った良平は寄宿舎で暮らすようになり、友達も出来た。町まで出て来た周平は寄宿舎を訪れ、良平を誘って昼食を食べに行く。良平が「夏休みになったら、毎日釣りに行こうね」と言うと、彼は「そうも行かんな」と口にする。
 周平が「色々考えたんだが、東京へ出ようと思う。もうひと働きしてみようと思う。このままだと、この先お前を学校にやることも難しい。お父さんは東京へ出て働く。お前はこっちの学校に残って、一生懸命勉強するんだ。これから競争だぞ」と語ると、良平は泣き出した。周平は「別に悲しいことじゃない。お前が学校を出て、東京へ来ることを待ってる。すぐ一緒に暮らせるようになるさ」と告げ、持参した小遣いや衣服を渡した。

 周平は東京の工場で管理職に就き、良平は高等学校を卒業した。今度こそ一緒に暮らせると思った周平だが、良平が進学したのは仙台の大学だった。ある日、囲碁を打ちに出掛けた周平は平田と遭遇し、彼の家に招かれた。
 娘・ふみは21歳になり、小学生の弟・清一の生意気な態度を注意する。平田は教師を辞めて、現在は市役所で働いていた。良平のことを訊かれた周平は、帝大を出て25歳になったこと、秋田の工業学校で教師になったことを話す。

 ある日曜日、周平は良平と久々に再会し、温泉旅館へ出掛ける。温泉に浸かった後、周平は部屋で酒を飲みながら平田やふみのことを話す。少し考え込んでいた良平は、教師を辞めて東京へ行きたいと周平に告げる。
 周平が理由を尋ねると、彼は「中学の時から、お父さんと暮らせるのを楽しみにして。今度こそ一緒に暮らせると思ったら、また秋田県の方へ決まってしまって。もうお父さんと別れて暮らすのが、たまらなくなったんです」と話す。良平が東京へ出て仕事を探したいと言うと、「そんなことは考えることじゃない。そりゃあ、お前と一緒に暮らしたいさ。だが、仕事とは別のことだ」と諭した。

 良平は周平の言葉に納得し、教師の仕事を続ける。周平は教え子だった黒川保太郎と内田実の訪問を受け、東京に暮らしている同級生が集まるので平田と共に来てほしいと頼まれる。周平が快諾すると、黒川たちは今週の土曜か来週の水曜を提案する。
 周平は息子が土曜辺りに上京するので、来週の水曜にしてほしいと告げた。周平が下宿へ戻ると既に良平が来ており、徴兵検査に合格したことを話した。周平は「良くやってくれた」と笑顔を浮かべ、良平は母の仏前で手を合わせて報告した…。

 監督は小津安二郎、脚本は池田忠雄&柳井隆雄&小津安二郎、撮影は厚田雄治、美術監督は濱田辰雄、録音は妹尾芳三郎、現像は宮城島文一、編集は濱村義康、配光は内藤一二、音楽は彩木暁一。

 出演は笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、大塚正義、日守新一、西村青児、谷麗光、河原侃二、倉田勇助、宮島健一、文谷千代子、奈良眞養(奈良真養)、大山健二、三井秀男(後の三井弘次)、如月輝夫、久保田勝己、毛塚守彦、大杉恒雄、葉山正雄、永井達郎、藤井正太郎、小藤田正一、緒方喬、横山準(後の爆弾小僧)、沖田儀一ら。

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 『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』の小津安二郎が監督と脚本を務めた作品。共同脚本は『桜の国』『人間同志』の池田忠雄と『碑』『三人姉妹』の柳井隆雄。
 周平を笠智衆、良平を佐野周二、少年時代の良平を津田晴彦、黒川を佐分利信、平田を坂本武、ふみを水戸光子、清一を大塚正義、内田を日守新一、和尚さんを西村青児、漢文の先生を谷麗光が演じている。既に小津作品の常連だった笠智衆だが、主演を務めるのは本作品が初めてだ。

 脚本は1937年に完成していたが、小津が日中戦争で出征したために製作は中断された。1939年に小津は除隊して帰国するが、同じ年には映画法が成立して製作前の検閲が義務付けられた。小津が復帰第1作に予定していた脚本も検閲に引っ掛かり、映画化できなかった。彼は別の作品に取り掛かり、初めてのヒット作となった『戸田家の兄妹』を発表する。それに続いて製作したのが、この映画である。
 検閲に合格するように、既に完成していた脚本を改定している。戦後になって多くの箇所がカットされたため、現在の我々はオリジナルの状態を見ることが不可能になっている。戦時中に小津が手掛けた最後の映画で、次回作は1947年の『長屋紳士録』になる。

 周平が修学旅行の注意点を説明する際、「東京では明治神宮と靖国神社に参拝する」と口にする。戦時中の映画なので、検閲を考慮して盛り込んだ台詞ではないかと推測される。この時期に製作された映画と言うのは、どうしても「国策映画」の枠から完全に逸脱することが難しかったのだろう。
 ただし、そこから登場人物が踏み込んで滅私奉公を思わせる言葉を口にするような方向へは進まない。修学旅行のシーンにしても、鎌倉の大仏前で写真を撮影する程度だ。良平が徴兵検査に合格する展開はあるし、「良くやってくれた。立派だ」と周平が称賛する描写もあるが、小津が積極的に国策映画を撮ろうとしていなかったことは明らかだ。

 そんな修学旅行について周平が「東京では明治神宮と靖国神社に参拝する。それから鎌倉、江の島方面へ行く」と説明すると、すぐにカットが切り替わり、鎌倉の大仏前で集合写真を撮影している様子が描かれる。つまり、あっという間に修学旅行のシーンに移行しているわけだ。
 かなり唐突で慌ただしい場面転換に感じられるのだが、ひょっとするとカットされたシーンがあるのかもしれない。考えてみれば、周平と良平のシーンも、もう少し何かあった方がいいんじゃないかと思うし。
 この頃の映画は戦後にカットされていたり、フィルムの一部分が失われていたりする可能性が考えられるので、正当に評価するのは難しい部分があるのよね。あと、どうしても録音状態が悪くて台詞が聞き取りにくい部分も少なくないので、そういう問題も大きく影響するし。

 この作品を見た時、小津が1936年に発表した『一人息子』を連想する人も少なくないだろう。『一人息子』では、田舎に住む母親が夫に先立たれ、一人息子を育てているという始まりだった。母は当初、息子を中学へ行かせるつもりなど無かった。しかし息子の気持ちを知り、中学へ進学させる。成長した息子は、東京で生活している。
 一方、この『父ありき』では、母親ではなく父親が一人息子を育てている。彼は最初から息子を中学へ行かせようと考えており、そのために勉強も教えている。そして『一人息子』とは逆で、父親が仕事のために東京へ行く。

 『一人息子』の息子は、成長して夜間中学の教師になっている。一方、『父ありき』では父親が中学の教師として働いているが、それを辞めて別の仕事に就く。息子は成長し、秋田で教師の仕事に就くが、父と暮らすために辞めようかと考える。『一人息子』の息子は既に結婚して子供もいることもあり、母と一緒に暮らすことなど微塵も考えていない。
 そもそも『一人息子』の方は、母が見合いをさせようと考えるまで、お互いに会いに行こう、帰郷しようという意識が全く描かれていなかった。母が上京するシーンまで場面が飛ぶので、そこに至るまでの2人の気持ちは全く分からないのだ。

 それに対して『父ありき』では、少なくとも父が息子と一緒に暮らしたがっていること、息子の学校や仕事の都合でそれが叶わないことが明確に示されている。また、良平が周平の写真を大事に持っている様子が描かれ、会えない時も父のことを思っていることが表現されている。
 彼は生徒から「先生もお父さんに会いたいですか」と問われ、「そりゃ会いたいさ。そりゃ幾つになっても同じことさ」と微笑で答える。その後で周平と良平が久々に会うシーンがあるが、それまでも何度か会っていたことが容易に推測できる。

 周平と良平が温泉に浸かるシーンでは、「ベタベタしている」という表現がピッタリ来るような様子が描かれる。たぶん今の時代に同じシーンを描写する映画を作ったら、気持ち悪い親子、不自然な親子という印象になるだろう。
 良平が「もうお父さんと別れて暮らすのが、たまらなくなったんです」と言い出すのも、今の感覚だと到底出て来ないような台詞だろう。しかし小津作品では、それが何の違和感も無く自然な物として伝わって来るのだ。

 「教師を辞めて東京に行きたい。父と暮らしたい」という息子の思いを聞いた周平は、それに反対する。彼は「どこで、どんな仕事だっていい。いったん与えられた以上は天職だと思わねば。人間には皆、分がある。その分は誰だって守らにゃならん。私情は許されんのだ。やれるだけやんなさい。どこまでも、やり遂げなさい」と説く。
 彼の中には、自分が教師の仕事を辞めたことに対する悔恨がある。だから彼は息子に、「お父さんは出来なかったが、お前はそれをやってくれにゃいかん。お父さんの分までやってほしいんだ。お前に頑張ってもらいたいんだ」と語るのだ。

 その翌日、周平と良平は旅館の近くで渓流釣りをする。序盤のシーンで、周平が故郷で小学生の良平と渓流釣りをする様子が描かれていた。どちらのシーンでも、父と息子は同じタイミングで釣竿を右から左へと移動させる。
 この2つのシーンは、もちろん2人の成長や関係の変化を表現するため、意図的に用意されている。ただし残念ながら、そんなに上手く機能しているとは言い難い。しかし小津監督は気に入っていたようで、後の『浮草物語』でも親子が川で魚釣りをするシーンが用意されていた。

 『一人息子』では、母親が息子に「偉くなってほしい」と願いながら、女手一つで息子を育てる。成長した息子は上京し、久々に母親が会いに行くと、給料の安い夜間中学の教師になっており、知らない内に結婚して子供も授かっている。
 終盤、息子は困っている人に手持ちの金を渡す優しさを見せ、中等教員の検定を受けようという前向きな気持ちを示す。しかし母親は息子の生活を見て落胆しており、帰郷してから密かに泣く。自分の生き甲斐さえ失われ、絶望感に打ちひしがれるという、とても寂しい終幕を迎える作品だった。

 一方、完全ネタバレになるが、こちらの作品では最後に父親が死去している。それだけを聞くと、「これも『一人息子』とは異なる形で寂しい終幕を迎える映画なんだな」と思うかもしれない。しかし、そうではない。
 周平は老衰じゃなくて病気で死ぬので、「大往生」と呼ぶには適しない最期だ。ただし、それでも彼は、幸せな気持ちで死を迎えられたんじゃないかと感じるのだ。その理由は、『一人息子』と違い、息子が彼の期待に応えてくれたからだ。

 進学や仕事のことだけでなく、ふみとの結婚を勧めて従ってくれたことも含めて、良平は全てにおいて「良く出来た親孝行な息子」だった。長く離れて暮らすことになったのは残念だったが、自慢の息子だった。だから周平は死の間際、「何も悲しいことはないよ。お父さんは出来る限りのことはやった。私は幸せだ」と言い残すのだ。
 とは言え、残された良平としては、やはり後悔の念もあったのだろう。「僕は子供の頃から、いつも親と一緒に暮らすのを楽しみにしていたんだでも良かったよ。一週間でも一緒に暮らせて」と言うが、もっと一緒に暮らせれば良かったと言う気持ちもあるのだろう。ふみと結婚した彼が平田、つまり妻の父を秋田へ呼んで一緒に暮らそうと決めるのは、その思いがあるからだろう。やはり、「父ありき」なのだ。

(観賞日:2017年7月10日)

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