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《九. 芸術映画は大嫌い 》

 雷次は新しいアイデアを生み出すため、外国映画や小説、新聞、漫画、テレビ番組など様々な方面へアンテナを張り巡らせていた。そして当然のことながら、日本映画も多く観賞していた。大映だけでなく、他社の映画も積極的に観賞し、そこからインスピレーションを得ようという意識を強く持っていた。
 そんな中で、彼が特に注目していた他社の監督が、沢島忠、中島貞夫、鈴木清順の三人である。

 沢島忠は、雷次が大映に入社した頃は東映の専属で、1967年に契約を解消し、その後は東京映画を経てフリーになった。1977年に映画監督を廃業し、舞台演出家に転向している。
 雷次は、東映時代に沢島監督が撮った「明るく楽しい時代劇」が大好きだった。彼の沢島監督に対する感情は、憧れであり、リスペクトであった。時代劇の固定観念に縛られない、新しい感性で撮られた沢島監督の映画に、雷次は惹き付けられた。

 雷次は好きな作品の一つとして、1961年の『水戸黄門 助さん格さん大暴れ』を挙げている。まだ20歳になる前の松方弘樹と北大路欣也が助さんと格さんを演じており、若々しさに満ち溢れた作品だ。劇中には、二人がそれぞれの恋人と一緒に噴水のある広場へ行き、ブランコを漕ぐシーンがある(もちろん実際には、江戸時代にブランコなど存在しない)。そして、そこで彼らが楽しそうに歌い始める。
 この映画を見た時、雷次は
 「すごい、すごい」
 と、幼い子供のように歓喜した。

 沢島監督は、青春ドラマやサラリーマン物、学生物など、現代劇の要素を時代劇に取り込んだ。また、美空ひばりとは何度もコンビを組んでおり、ミュージカルの要素を取り入れた作品が多いのも特徴だ。
 この内、「他のジャンルを取り込む」というやり方は、雷次も真似をした。ミュージカルについては、
 「見ていて楽しいし、素晴らしいけど、俺には真似が出来ない」
 と諦めたが、テンポやリズムを大事にする雷次の演出は、沢島監督から影響を受けている。

 雷次にとって、沢島監督は影の師匠のような存在だった。実際に弟子となったわけではないが、雷次は沢島監督を敬愛していた。1966年の『おしゃべり奇想剣』は、作った後になって、沢島監督が1962年に撮った『酔いどれ無双剣』と題名が似ていることに気付いた。自分では真似をしたつもりなど無かったが、いつの間にか心に刷り込まれていたのである。
 「もし東映に入社していたら、俺は必ず沢島監督に弟子入りしていた」
 と、彼は後に語っている。


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 中島貞夫は、前述した沢島監督やマキノ雅弘監督の下で助監督として経験を積み、雷次と同じ1964年に監督デビューしている。1970年代に入ると、深作欣二と共に東映の実録ヤクザ映画路線を牽引した人物だ。
 雷次は、同じ年のデビューということもあって、1966年の『旗本やくざ』や『893愚連隊』辺りから意識するようになった。自分とは異なるタイプの娯楽映画を作る監督として、注目していた。一方的に、同期のライバルとして意識していた(年齢としては中島監督の方が7つも上なのだが)。

 1972年に中島監督が発表した『木枯し紋次郎』では、それまでの東映映画で見られた「流れるような華麗な殺陣」ではなく、泥臭い戦いが描かれた。主演の菅原文太は敵の刀を避けて走り回り、斬られた敵はヒイヒイと悲鳴を上げて地面をのた打ち回った。

 これを観賞した時、雷次は
 「ほら見ろ、こういうチャンバラ映画を撮る奴が出てきた。俺がチャンバラの評判に満足せず、早くから企画も考え始めたのは、やっぱり正解だった」
 と口にした。その時の顔は、やけに嬉しそうだった。それは自分の判断が正しかったことに満足しての表情ではなかった。ライバル視していた中島監督が、仁侠映画に染まっていた東映の中で、面白い時代劇を作ったことが嬉しかったのだ。


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 鈴木清順は1956年に日活でデビューし、無国籍アクションやハードボイルド映画などを手掛けた。
 その独特な映像感覚によって、一部のファンや評論家から熱狂的な支持を受けた映画監督である。
 しかし1967年に発表した『殺しの烙印』に、当時の日活社長であった堀久作が激怒し、「ワケの分からない映画」と批判して契約を打ち切った。鈴木清順は映画界から追放された状態となり、1977年に松竹で『悲愁物語』を監督するまで、約10年間のブランクを過ごした。

 日活時代の鈴木清順に対する雷次の評価は、
 「プログラム・ピクチャーの枠内で、アバンギャルドなことにチャレンジする人物」
 というものだった。
 特に雷次が感心したのは、場面を大胆に省略するジャンプ・カットの使い方だ。ジャンプ・カットとは、「ある状態からカットが切り替わると、異なる状態になっているが、その過程を描かない」という手法だ。
 この演出法は、雷次も『お坊主天狗』で取り入れている。

 雷次が清順作品のベストとして挙げる1963年の『野獣の青春』でも、ジャンプ・カットが多用されている。また、イマジナリー・ライン(対面する人物を結ぶ架空の線)を無視した構図の作り方にも、雷次は唸った。
 『殺しの烙印』で清順監督が日活から解雇された時、
 「そりゃあ、あれは確かに失敗作だと思う。だけど、セイジュンさんは娯楽映画の新しい可能性に挑戦しようとしたんだ。そういう人間を捨てたら、日活は死ぬぞ」
 と雷次は怒った。

 だが、清順監督が映画界に復帰し、1980年と翌年に『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』を撮った際、それを見た雷次は
 「そうか、セイジュンさんは娯楽映画を作ろうとしていたわけじゃなかったのか。ただ単に、芸術がやりたかっただけなのか。裏切られたような気分だな」
 と落胆した。そして、
 「あの時、擁護した自分がバカみたいだ」
 と自嘲した。


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 『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』に雷次が落胆したのは、日活時代に「アバンギャルドな娯楽映画」を作っていたはずの鈴木清順が、実際には芸術映画の方向を向いていたことが分かったからだ。
 雷次は、芸術映画や実験映画など、娯楽性を考えずに作られた映画が大嫌いだった。それは大映に入る前からだ。

 その嫌悪感は、半端なものではなかった。
 1959年のジャン=リュック・ゴダール監督作『勝手にしやがれ』がきっかけとなり、フランスからヌーヴェル・ヴァーグの波が日本に押し寄せた時にも、
 「ゴダールなんて、まともな映画が撮れないだけじゃないか。何がヌーヴェル・ヴァーグだよ。あんなモンは、面白い娯楽映画を撮れない連中の言い訳だよ。所詮、あいつらは娯楽映画から逃げているだけだ」
 と扱き下ろしている。

 同じ頃、日本でも大島渚や篠田正浩らが実験的で革新的な映画作りに乗り出し、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」などと呼ばれたが、これにも雷次は好意的な意見を持たなかった。
 「自分たちで企画して、新しい映画を作ろうっていう精神は素晴らしい。だけど彼らは、自分さえ良ければ構わないっていう映画作りをしている。お客さんに楽しんでもらおうっていう意識が決定的に欠けている」
 それが、松竹ヌーヴェル・ヴァーグに対する雷次の評価だった。

 雷次の映画に対する考え方が顕著に示された、一つのエピソードがある。
 ある時、彼に就いた助監督が、
 「映画は優れた芸術である」
 という趣旨の考えを語ったことがあった。すると雷次は重々しい口調で、
 「お前が本気でそう思っているのなら、一緒に仕事をすることは無理だ。二度と俺の下に就くな」
 と告げた。

 うろたえた助監督は、
 「どうしてですか。雷次さんだって、素晴らしい映画を撮ってるじゃないですか。雷次さんの映画は、芸術作品ですよ」
 と告げた。それに対し、雷次は
 「お前は何も分かっちゃいないな」
 と額を押さえた。

 「いいか、俺は自分の映画が芸術だと思ったことなんて、一度も無いぞ。映画は芸術なんかじゃねえ。庶民の娯楽なんだよ。娯楽映画を作れない連中が、前衛だ、芸術だという方向に逃げてるだけだ。あっちが高尚、こっちは低俗なんていう連中も世の中にはいるが、何も分かっちゃいない。あっちはセンズリこいてるだけなんだよ」
 助監督が恐縮した様子で聞いている中、雷次の言葉は続いた。

 「芸術映画を撮ってる奴らより、プログラム・ピクチャーを年間に何本も撮ってるイッセイさん(森一生)や三隅さん(三隅研次)なんかの方が、よっぽど偉いんだ。商業主義、大いに結構じゃないか。映画ってのは客商売なんだよ。お客さんに見てもらってナンボなんだよ。それを無視して映画を撮ろうなんて奴は、甘えているんだ。
 そりゃあ、頑張って娯楽映画を作ったのに、コケる場合だってあるだろう。だけど、少なくとも『お客さんに楽しんでもらおう』という意識を持って作ることは、絶対に必要なんだ。『観客なんてどうだっていい、俺が作りたいものを作る』とか抜かす奴には、商業映画の世界で生きる資格は無い。そういう奴は、芸術の世界で死ぬまでセンズリこいてろってんだ。分かったか」
 「は、はい」
 「分かったら、二度と映画が芸術だなんてことは口にするなよ」

 そこまで辛辣なことを語るぐらい、雷次は芸術主義に対して、異常なほど手厳しかった。
 「映画は庶民の娯楽であり、映画人は常に、観客に楽しんでもらうことを考えて作品と向き合うべきだ」
 という考えは、彼の映画人生の中で、全くブレることが無かった。


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