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短編332.『オーバー阿佐ヶ谷』32

32.

【小石川真妃奈の場合②】

 随分前に取り壊され、長いこと空き地になったままのスターロードの一区画。夏に繁った雑草はまだ子どもの背丈くらいの長さを誇っていた。一面の緑は画角の切り取りようによっては草原を思わせる。
 その草むらが揺れている。風はない。何かの物体が動くことで草むらの一部が生き物のように揺れている。

 ーーー誰?何かいるの?猫…かな。

 と真妃奈は思った。微かに鈴の音が聞こえたような気がした。

 酔いも手伝ってか「おいでー」と真妃奈は言った。普段ならこんな草むらに見向きもしない。ましてや服が汚れるのを厭って、足を踏み入れるなんてもってのほかのはずだった。でも、今日はなんだか無性に猫を触りたい気分だった。思うようにならない世相や日々のささくれだった心が小さな癒しを求めていたのかもしれない。

 草むらに足を踏み入れ、軽く舌を鳴らしてみる。チチチチチ。チチチチチ。昔、実家で(他の部屋の住人には内緒で)飼っていた猫を呼び寄せる時の記憶がそうさせた。ーーートラ吉はいつも跳ぶように寄ってきた。猫なのにとても人懐っこくて。在りし日の記憶がまざまざと蘇り、真妃奈の心は温かい気持ちと淋しい気持ちのまだら模様になった。

 草むらの奥で、重く鈍い、何かが移動する音が聞こえる。それは真妃奈の前方の足元の方で鳴っていた。

 ーーー絶対、猫だ。間違いなく。

 真妃奈は草むらを分け入り、音のする方へ進んだ。奥に行くに従い、雑草は徐々に高さを帯びてくる。音は右へ移動した。

「怖くないよー出ておいでー」と真妃奈は言った。喪服のポケットを探るも餌になりそうなものは何一つ入っていなかった。真妃奈は指先についた埃を擦り合わせた。埃に覆われた自分の指先の感覚はどこか他人のもののように感じられた。真妃奈は猫が驚かないよう慎重に出来るだけゆっくりと歩を進めた。

 真妃奈の足音に反応する様に、草むらの揺れは大きくなる。ーーーもうちょっとだ。と真妃奈は思った。暗闇に光る二つの目。ーーー猫猫猫。にゃんこ。

 真妃奈の胸の高さほどの雑草が小刻みに揺れている。ーーー見ぃつけた。真妃奈は雑草をかき分けた。そこには何もいなかった。ーーー逃げちゃったの?と真妃奈は思った。

 背後で草の擦れる音がした。ーーーそっちか!真妃奈は急いで振り返る。ーーーいない。真妃奈はゆっくり首を戻した。

「あっ」

 目があった。それは同じ目線の高さで目があった。真妃奈には一瞬、何が起きているのか理解出来なかった。ーーーあれ?今って舞台の本番中だっけ?と真妃奈は思った。

 姿を現した”それ”はいつか観たミュージカル『Cats』の俳優が演じる猫人間のようだった。細長い肢体は虎柄のウェットスーツを着ているような肌に張り付く艶かしさがある。その後ろでは蛇のような尻尾が左右に揺れている。どことなくコミカルな顔。ペイントでも施したように”猫らしさ”を強調していた。

 “それ”は一歩ずつ真妃奈の方へ近づいてきた。草が踏み潰され倒れていく音が徐々に大きくなってくる。尻もちをついた真妃奈を見下ろす、縦に細い瞳孔。真妃奈は気を失いそうになるのを必死に堪えた。





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