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短編179.『もしも胃袋が二つあったなら』

 マンホール傍に落ちていたシケモクを拾って早速火を点けた老婆には、コロナなんて関係ないのだろう。そもそもそれ以前の問題だ。そこまでして吸いたいと思わせる煙草は最早、マルクス云うところの物神(フェティッシュ)なのかもしれない。

 ーーー乞食、だろうか。

 今はホームレスと呼ぶべきか。それともドイツ語でルンペン?なんにせよ言葉狩りの対象になる恐れはある。

          *

 昔から乞食を見ると居ても立っても居られない性分だ。そこに将来の自分を重ねてしまうのかもしれない。かといって何かをしたことはない。

 漠然とした恐怖心は慈悲心へと代わる。情けは人の為ならず、と昔の人は言った。ここで乞食に優しくしておけば、いつか誰かが落ちぶれた私にも優しくしてくれるかもしれない。(そもそも『落ちぶれる』だけの高みにはまだ登っていないが)

 ーーーこれは慈愛なのか、それとも計算高きスケベ心か。

 乞食当人にとってはどうでも良い問いだが、施す側にとっては神に試されているような重要な問題だ。私は財布を確認した。千円入っていた。とても三十六歳の財布の中身とは思えないが、私にしては金が入っている方だった。となると、やるべきことは一つだった。

          *
「おばさん、ちょっといいかな」
 乞食の背後から声を掛ける。振り返った乞食の口元にはシケモク。黒く焼き潰れた先端から細い煙が出ていた。
「一人でメシ食うのもなんだからさ、一緒にどう?」
 ナンパ。この歳になって初めてするナンパの相手は七十オーバーと思しき乞食。そして、明らかに訝しがられている。ーーーこれが歳若き女だったらな、と思った。でも、歳若い女は乞食にはならず、かりそめのパパにでも”たかる”んだろう。

「しかし暑いね。どっか涼しいところにでも入ろうか」
 一人で喋り続ける。古舘伊知郎もびっくりのトーキングブルース at 路上。ギャラは出ない。むしろ出ていく。
「と言ってもまぁそんなに金はないからさ。牛丼とかなら奢れると思うよ」

 私のひたむきさが良い方に転がったらしく、我々は牛丼屋へと向かうことになった。

          *

 店内の視線が痛い。客、店員、空気が三つ巴に刺してくる。

 チケットの販売機の前に立ち、「なんでも好きなもの食べてよ」と言った。乞食は迷っていた。何に迷っていたのか。メニューか、それとも値段に気を遣っているのか。なかなか決まらないことによる焦燥感から「なんなら大盛りにしたって良いんだぜ」と懐の大きさを見せつけた。(心と懐は正比例しないらしい)。七十オーバーとはいえ、女は女。全ての女性は優しくされるべきだ。ーーーこれは差別だろうか。

「嗚呼、胃袋が二つあったらなぁ」と乞食は言った。
「二つ?」
「カレーと牛丼、どっちにしようか迷ってる」

 ーーーカレーと牛丼を二つとも頼めば良いさ、と言えるほどの器は無かった。それを言ってしまうと、私の昼飯が買えなくなってしまう。我が身、可愛や。可愛や、我が身。『無い袖は触れない』の古言通りに、身の丈以上には振る舞えなかった。自らの顔面を差し出すアンパンマン、飢えた虎に身体を差し出す仏陀。いかんせん、そこまでの愛は無かった。

「♪牛の胃袋は四つある〜。だけど人には一つ〜♪一人一つの胃袋抱えて、それでも空腹抱えて〜♪」

 乞食は歌(ブルーズ)を唄いながら店を出て行った。私はただその背中を見送るしかなかった。

『俺は全部欲しい。そうじゃないなら何もいらない』と言ったブコウスキーの哲学実践者だろうか。

 ーーーそれとも。



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