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短編327.『オーバー阿佐ヶ谷』27

27.

【小牧亨の場合①】

 ーーーなんで僕は認められないんだろう。こんなにも努力して、こんなにも夢の為に全てを捧げて、こんなにもーーー。

 月の綺麗な夜だった。僕の心とは真反対で、空には雲ひとつなく頭上には満月がただ浮いているだけ。銀色に光る表面は魔女の横顔のように怪しく、臼を撞く兎のように寓話的だった。

 ーーー”何者か”になれない人生、コンビニでレジ打つだけの人生、舞台袖で主役を眺め続ける人生。

 世界に、というか宇宙に一つしかない月を想うと、激しい嫉妬に駆られる。僕だってオンリーワンの人間になりたい。他の役者に代替が効かないような、「あなたじゃなきゃ駄目なんです」って言われるような、そんな俳優に。

 ーーー舞台に立ち、観客の目が一斉に自分を見ているという愉悦を知ってしまった人間は、辞めたその後に続く静かな人生を耐え切れるのだろうか。

 今日も主催を怒らせてしまった。なにより主催は、僕の演技というより僕自身のことが気に入らないみたいだ。やれ「台詞の言い回しが違う」から始まって「感情の」だの「姿勢が」だの、終いには髪型や服装のことまで。ことあるごとにいびられて、もうウンザリだ。僕はただ芝居をやりたいだけなのに、人間関係にまで気を回して疲弊して。いや、そもそもがもう古いんだ、考え方も演出方法も何もかも。あんな時代遅れの演劇論にはもうついてはいけない。こんなところで燻っている暇なんてないのに。親からは三十までに芽が出なければ帰ってきて家業を継げ、と言われている。三十歳まではあと二年。二年か。あと二年で何が出来る?

 ーーー与えられる配役は僕の特性から大きく外れるものばかりで、得意な長所は何一つ活かせず終い。このままで終わっていいのか?それで満足なのか?僕は。

 頭の中にはあらゆる可能性が散らばって渦を巻いている。それは川に落ちた木片のように、浮かんだり沈んだりを繰り返しながら誰かの手で拾われるのを待っている。英雄を孕んだ桃みたいに。

 ーーー流れ去ってしまったものはもう二度と同じ川の流れには戻ってこない。だから早く、一刻も早く、掴み取らなければ。

 僕は川辺に立ち、その木片の一つに手を伸ばす。水は冷たく、指先に刺すような痛みを覚える。拾い上げたそれは水を含んで重く、色も澱んでいたけれど、この”僕”がずっとずっと求めていたものだった。

 ーーー今ならまだ間に合う。他の劇団に移ろう。僕の役者人生最後のチャレンジとして、有名な劇団のオーディションを片っ端から受けまくるというのもありかもしれない。

 酒が足をもつれさせる。『ソルト・ピーナッツ』で飲んだ正体不明の酒がだいぶ廻ってるみたいだ。心拍数は普段の倍くらいあって、やけに喉が渇く。自分の中の血が沸騰して蒸発していくような感じだが、それは無性に心地が良かった。



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