見出し画像

自由って苦しい


大学生になって2回目の春休みが来た。
もう学生生活が半分終わったと思うと、心のどこかに不安のちらつきを感じる。去年の今頃、部活を辞めようか迷いながらも続けていたなと思い出した。あの時は、部活に時間を捧げすぎて、遊ぶ暇も趣味を楽しむ時間も心の余裕もなかった。辞めてしまった今、春休みをどう過ごしていこうか考えて明け暮れてしまいそう。



バイトするにしてもずっとは働いていられないし、友達と遊びまくると言っても、それなりにお金と遊んでくれる友達が必要だと思う。スマホ見てだらだらとごろごろ過ごすことは自分の性格的に苦手。そんな日も過ごすけど、毎日じゃなくていい。一般的な大学生って、この春休み何してるんだろう。



ほとんどの人は、小学校から高校という、ある程度の縛りがある世界で生きてきたと思う。あの時は、「自分で全部決められる大学生は自由でいいな」「早く大学生になりたいな」とか漠然とした憧れを常に抱いてた。決められたルートを歩かされる人生に多少の反抗心を持ってた時期だったなと思う。
今思えば、そのまま生きられたらよかったのにって。あの時は嫌々してたけど。



大学生になった今、期待通り本当に自由になれた。特に、実家から出て一人暮らしを始めたから尚更最大限の自由を手に入れた気がした。その代わり、どう過ごしていくかは自分次第で決まっていく。締め切りを訴えてくれてた先生はいないから自分でレポートの提出期限を確認しないと単位はもらえないし、寝坊して授業に遅刻したり、だるいという理由だけでずる休みしたりして堕落した生活を送ることにもなる。
ここは、上手くいかないことがあれば全部自分が原因になってしまう世界線だった。



その選択をしたのは自分であって、誰かに指示されてやったことじゃない。それが上手くいかないとき、「なんで上手くいかないの」と何かに対して八つ当たりしたくなるけど、その対象はいつだって自分自身。
小中高は、例え自分が原因だったとしても当てつける対象が自分以外に存在していた環境だったことが大学とは大きく違うところな気がする。責任や原因が自分に全部返ってきてしまうことで、責める対象が自分しかいない負のループが続くことで、病むことに繋がるのかなと思う。




途中で部活を辞めてしまったこと、バイトが長続きしないこと、ガクチカとして言えるほど力を入れたことが大学生の内にできていないこと。これら全て自分の意志と行動で選んで始めて、終わらせた。何も上手くいってない自分が嫌になって病んでいたときに

「自由って苦しいな」

と心の声が一人静かな部屋に響いた。



ここまで話してきたことは、自由と言うよりも”自己責任”という意味合いが強い気がする。今までは責任を自分で負うようになることが一種の"大人への一歩"みたいにプラスの感情で捉えていたけど、そうじゃないと教えてくれた本と出会うことができた。


「自己責任」という言葉が、「人を孤立させる言葉」だとしたら、「人を孤立させない言葉」を探し、分かち合っていくことが必要だ。

荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房,p198



自由というまるい言葉に隠されていた自己責任という言葉は、私を突き放して一人で生きている感覚を与えていたような感じがする。今まさに悩んで苦しんでいたことに対して、たまたま読んでいた本にあった言葉に救われた。
私と同じように自分を自分で責めて心が病んでしまっている人がいるなら、この言葉を教えてあげたい。そして、一緒に「人を孤立させない言葉」を探していきたいと心から思った。



「これが正解」「こうしなければならない」ことは一つもなくて、悩み苦しみ考え続けることが最適解だったりもすること。
これを知ることができただけでも、十分に心地良い春休みを過ごすことができそうだな。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?