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誰かの心の中で生きられたらそれはもう幸せ


もう12月だというのに、20度近く気温が上がることを天気予報のお兄さんが、

「あたたかい陽気になりそうです」

とポジティブな発言をするニュース番組を朝見ていた。日本、というより世界の気候が異常だと誰も教えてくれないのかと変に肩を落とす。


暑がりの末端冷え性という特異体質を抱える身としては、未だにアウターを着ることができていない。いつになったら私に冬は来るのだろう。師走と言われているし、気づいたら春になってテレビから、

「春の陽気がやってきました」

と呟かれてしまうのは何としても避けたい所存。




仕様もないことを考えながら始まる週の始まりは、特に興味もない分野の授業しかない時間割。
うんざりするのさえも飽きてきた。
経営を学ぶ身としては、文学部要素の宗教や文化的意味合いが強い授業は余りものでしかなかった。それでも、気が向いて真面目に授業を受けてみると、自分の中から問いが浮かんできたり思考を掻き立てるような観方を得られたり。
思いつきノートにペンを走らせるときは、大抵月曜だった。




授業終わり、リアクションペーパーたるものを提出しに行くと教授から、


「内容難しいかな。抽象的だもんね。
それでも、いつもよく聞いてくれてるよね」


と言われた。
覚えられていることに驚く以前に、最初から最後まで授業を聞けたことは正直一度もないのに、そういう印象を受け取られているということ。(心からの謝罪)
確かに、いつも一番前の一番扉に近い席に座っているけど、教室に着いたらそこしか空いていないのと奥の方の席を探すのがただ億劫という不可抗力的理由にすぎない。



多分、意欲ある学生というよりは他がスマホか寝るか内職をしているから私が良い意味で目立っていたのかもしれない。今思えば教授と目が合うことがあったなと微かに思い出す。




その教授はいつも学生に何かを与えようとしていた。それは学問的な知識もあるけど、何より自分で考える力を与えようとしていた。
出席している学生のほとんどはそれに気づいていないかもしれないから私だけの特権だ(仮)。
与える側の人が放つ言葉と見せる生き方は、受けとる側の心にずっと生きたまま残り続ける。何かの拍子にふっと脳裏に出てくるもので、良い意味で一生付き纏ってくる。





遺書よりも遺物よりも遺産よりも、残したいものかもしれない。
私が思う幸せの形の一つ。



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