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文系大学院卒社会人の雑読日記

修士論文を書き終え、それ以降ぱったりと本が読めなくなった。
いったんの目標に到達したからか、文字を読みすぎたことに対する反動か。
よく分からないけど、読めなくなったしまった。
しかし、少し経ったからか、段々と本が読めるようになってきた。面白い本はやはり面白いだけの理由があり、僕を読書へと誘った。そんなリハビリの記録をここに少しづつ記していこうと思う。


小川洋子『からだの美』

小川洋子が書く物語には独特の世界が広がっていると、常に感じる。どこか淡い世界の描き方の中に、ドロッとした赤黒いところがある。そんな世界に惹かれ、小川洋子の作品を読む機会が多いのだが、この『からだの美』は随筆集とのことで、彼女の淡い表現、そしてその表現を生み出す彼女の世界の解像度を堪能できる本となっていた。

「赤ん坊の握りこぶし」という随筆に以下のように書かれている。

自分がこんなに人類愛を抱くようになるとは、意外だった。若い頃はむやみに手足をぴこぴこさせ、よだれを垂らし、すぐに大きな声で泣く赤ん坊が苦手だった。いつしか親になり、両親が逝き、孫が生まれ、ふと気づくと次に死ぬのは自分の番になっていた。順番は大切だ。宇宙の摂理だ。ゆったりと宇宙の波に身を任せておけばいい。そうする以外に方法もない。
(121頁)

僕はまだ社会人1年目の青二才であるから、この感覚をすべてわかるときはまだ遠いとは思う。それでも、赤ちゃんが力強く握った拳を見ると、どこかざわつく心がある。その力強さ、純真さは遥か昔の僕にもあったはずだった。けど、もう思い出せない。その歯痒さから、自身が並んでおり、少しづつ順番が近づいているのを感じる。僕はまだ若いとは言われるが、あんな力強さは、僕の中を探してもまだないのかもしれない。

中村桃子『「自分らしさ」と日本語』

言葉使いには、その人自身が出るといつも思う。

僕は、一人称を「俺」というほどの強さを持ち合わせてはいない。だから、「俺」という一人称を使うことを避けている。「俺」という一人称が与える印象を自身が持っていないと思っている。
これは単なる一例ではあるが、こういった言葉使いの印象は、個人の中だけで出来上がるものではない。自身が持っているイメージを基に、自身をある種形容することで、そのイメージへを持つ自分自身を、他者へと顕示する。こういった間主観的な視点から言葉について考える学問が、社会言語学なのではないかと思う。

本書を読み終わったみなさんは、「ことばの遊園地」の入場門をくぐって、園内マップを渡してもらったところだ。本書は、いわば、遊園地の地図だ。地図には、「名前の国」「呼称の国」「方言の国」「女ことばの国」など、いろんな国がのっている。
それぞれの国には、地図には書いていない宝物があるかもしれない。どこに、どんな楽しいものが待っているのか、早く中に入ってみたくないですか?
ようこそ「ことばの遊園地」へ!
(226頁)

入門書とはこういったものであるべきであろう。門をくぐった後にあるワクワクやドキドキを示すことができる入門書は良書である。ときどき哲学の入門書には、門の前でつまずかせるような、高額のチケットを売りさばいているような入門書を見かけることがある。まるで打ちのめされることで入門資格を得るかのような。これは賛否両論あるかと思うが、やはり楽しいに越したことはない。そんな楽しいワクワクを垣間見たのが本書であった。
(一方で、遊園地の中でうろちょろしているとだんだんと辛くなってくるのも学問ではあると思うが)

と本の内容に全く関係のないことを書いてしまったが、「ことば」「アイデンティティ」「関係」といったものに関心があるなら社会言語学という学問があることは知っておいた方が良いとは思った。これらは僕自身の哲学的関心にも近しいところはあったので、一つの知識となってことは間違いがない。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(文庫版)

哲学をちょっとかじったことがある人なら誰もが知っているだろうこの本を、哲学で修士を取った後、恥ずかしながら今頃読んだわけである。

正直な感想として、みんな読むわけだというほど、面白かった。哲学的問いを喚起する様々なエッセンスが到るところに散りばめられていた。

就職し、お仕事に従事する自身の生活の中で、残業をし、へとへとに疲れて家に帰り、何もできない時間が現れる。このとき、「何となく退屈」を感じる。でも何もする気が起きない。文字は読めず、映像を見るのも一苦労。頭の中に情報を入れることが億劫になる。一方で退屈は無くならない。このときに何をすればよいのか。
この退屈を感じる僕自身を肯定することができる。そんな哲学が本書の中には広がっているように思える。何となくの退屈を感じ、YouTubeを垂れ流している自分を卑下することなく、そんな退屈を感じる自分を肯定する術もまた哲学の一つの側面かもしれない。

人の生は確かに妥協を重ねる他ない。だが、時に人は妥協に抗おうとする。哲学はその際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、「まぁ、いいか」から遠ざけるからである。(4頁)

退屈を感じた中、燃え上がるような何かの行動を起こすことができないとき、妥協した選択を行う。それがYouTubeであり、Tik Tokであり、Instagramであり、Xであり。これらを見たからといって、人生を変えるような何かに出会う可能性はあまり高くないだろう。これらは暇つぶしとしての妥協の上に成り立っていると言えるかもしれない。少なくとも見る側にとっては。

ただ、人間はこれらだけでは、人生が成り立たないことも知っている。それゆえ、妥協から離れ、自身を駆り立てる何かへと従事しようとする。我を忘れて没頭できる何かへと。その何かを見つけるための軸足として、哲学は役割を持つのかもしれない。

細かい哲学の議論は、また別の機会にしようと思う。

向谷地生良・高橋源一郎・辻信一・糸川昌成・向谷地宣明・べてるの人々『弱さの研究——「弱さ」で読み解くコロナの時代——』

人間は弱い存在であると常々思う。その「弱さ」は人間の到るところに現れる。一人では生きていけないため他人からの承認を求めるといったところには顕著に人間の「弱さ」が現れるように感じる。こういった「弱さ」に押しつぶされ、「弱さ」を持つ自分への向き合い方がうまくできなくなってしまうと、精神を病んでしまうのではないかと思う。

そういった人々の中には、「統合失調症」とレッテルを張られ社会から一様に捉えられる人や、恋人に振られ途方に暮れる大学生など、ある程度のグラデーションの差異はあるかもしれないが、多様な個人が含まれていくだろう。コロナで人々の間に物理的な距離ができたことで、個と個が分断されたことで、この多様な人々が抱える「弱さ」が際立ってきたことも確かであろう。

その意味で「弱さ」とは、私たちに内在する「利他遺伝子」を呼び覚まし、「弱さの結晶としての強さ」を人と場に創造する大切な触媒なのかもしれない。(5頁)

僕たちは弱さを持ち、その弱さの中で生きているはずである。一方で、何かのすれ違いが起きるのを避け、論理が通っている確実性も魅力的であることも確かである。多くの人から承認され、ある程度の地位を確立し、その上に立つことが必要なことも多い。こういった確実性を求めるのも、人間の弱さからである。ただ一方で、弱さを肯定し、間違いやすい場から、生まれるものもある。間違った中でも、立ち止まらないことで新たな何かが生まれることもある。それが本書で言う「べてるの家」なのかもしれない。

確実なところにいたら、もうそこから動かなくなる。不安定なところで、その不安定性を肯定しながら、立ち止まらないことで見つかる何かもあるだろう。

おわりに

ひとまずここら辺で今回は終わりにしようかと思います。
まだいくらか読んだ本はあったのですが、どうもこれだって気分にならなかったので、ここには書かなかったです。

まだリハビリ途中で、たどたどしく本を読み、たどたどしく文を紡ぐことしかできないですが、少しずつ少しずつ論文を書いていたあの頃の感覚を取り戻していきたいとは思っています。

ステキな文章を書けるようになりたいなぁ。


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