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3カ月寝たきり入院していたら筋肉が「そこになければないですね」状態になってしまった話

重症急性膵炎闘病記の第7回です。第6回はこちら↓

わりとまあまあな数の関係者が「こりゃ死んだな」と思った危機的状況を何度か乗り越えて不死鳥のごとく生き延びたたろちん。一般病棟に移り、いよいよあとは退院に向けてリハビリをするだけ、という状態になりました。しかし、彼はそこで知ることになる。3カ月におよぶ寝たきり生活で彼の肉体は完全におじいさんと化していたのであった……。

妻と約3カ月ぶりに対面

10月26日に入院してからICU、HCUを経て、ようやく一般病棟に移ったのは2月7日のことでした。実はその前日、約3カ月ぶりに妻と対面する機会がありました。

その時期、僕はようやく院内のリハビリ室で毎日1時間程度のリハビリができるようになったころでした。それまでは病室のベッドで寝たまま手をグーパーしたり、ベッドのリクライニングを起こして座る体勢をするくらいしかできなかったんですが、なんとか車いすに乗るくらいのことはできるようになりました。

初めて車いすに座ったときもなかなか壮絶で、「頭が重すぎて首で支えられない」という体験が衝撃的でした。宇宙飛行士とかも地球帰ってきた直後はそうなるらしいです。宇宙とあの世って距離的には同じくらいなのかもしれません。

そこから考えると乗り込むのに大人複数名の介助がいるとはいえ、1人で車いすに座っていられるどころか自分で漕ぐことまでできるというのは劇的な進歩だと言えるでしょう。そんでいつものようにリハビリ室からHCUに戻る廊下をヒイヒイ言いながら車いすで進んでいると、遠くのほうになんだか懐かしい気を感じました。そこに妻が立っていました。

妻は定期的に荷物の持ち込みや医師との面談といった用事で病院に来ていたんですが、コロナ禍のアレでICUやHCUは完全に面会謝絶でした。マジで死ぬかもしれない5秒前(マジdeath5)のときに家族が1回だけ病室に入ったことはありましたが、僕の意識は三途リバーに出張中だったので当然会話などはできてませんでした。

ただ、病室内には規則で入れないけどリハビリ室は一般の患者さんも来る病棟内にあるので、タイミングが合えばすれ違うことくらいはできるんですね。もう何か月も会えていないから、という配慮で、ちょうどリハビリ時間が終わることを知っている医師が「そこで待っていれば会えるかも」と気を利かせてくれたんだそうです。こういうところはすごく「人間が人間を治療してくれているんだ」という気持ちになりました。ほんとにいい先生たちに助けていただいたなと思います。

その日妻が来ることを知っていた僕はすぐに全てを理解しました。保育園でお母さんが迎えに来た時、子供が猛ダッシュで突進していく光景があるでしょう。私の車いすも光の矢となって妻のもとに走っていきました。気持ちは。実際は全筋肉が消滅しているのでめっちゃゆっくりでした。

久しぶりにZoom越しでない生身の妻を見たらなんかすごく「生きて動いてる!」という感動がありました。向こうのほうが100倍そう思ったかもしれませんが。

メシ食いながら「あああああああ……」と言っておしっこ出ちゃう

その日の面談で「部屋が空き次第、一般病棟へ移る」という説明があったんですが、翌日には早速一般病棟に移動となりました。このへんの移動は入院から退院までいつもラブストーリーくらい突然で、退院時も「いつごろになりそうですか?」って聞いたら「いつがいい? 明日でもいいけど」とか言われました。そんな近所に新しくできたラーメン屋行くみたいな感覚で退院決めてええんかと思った。

とにかくようやく一般病棟にたどりつきました。重症じゃない急性膵炎だと最初から最後までこの一般病棟で過ごすのが普通かもしれません。前回触れた永田カビさんの膵炎漫画でも数日の絶飲食や点滴はあるものの、普通に歩いたり仕事したりシャワーを浴びたり病院から逃げ出したりする描写がありました。

再発して病院から逃げ出す続編も読みました。奇しくも僕が入院している間に出てた

ただ、僕の場合は寝たきりの重症期間が長すぎたせいで、自分1人では立つことはおろか車いすに乗ることもまだできません。もう今さら4人部屋で知らんおじいやおばあに気を遣って暮らす気力がなかったのでトイレもテレビも冷蔵庫もフル装備の個室にしてもらったんですが、徒歩5秒の距離にあるトイレにすら行けないので最初は元気よくおむつにおしっこをしていました。そこそこいいホテルに泊まれる個室料金払って3食マズイ飯付きの小部屋生活(トイレ行けず・シャワー週1)が始まったわけです。電波少年の企画みたいな暮らし。

気楽っちゃ気楽なんですが、一般病棟は言わないとおむつも3日くらい替えてくれないくらいわりとほっとかれるので「あの頃(ICU)はずっとアタシのそばにいてくれたのに変わっちゃったのね……」とちょっと思いました。

そういえば一般病棟に行ってから飲み物やヨーグルトなどは院内のコンビニで買って自由に飲んでいいことになりました。絶飲食中、毎日トランペット少年さながらに飲み物のことだけを考えていた僕が発狂して喜んだことは言うまでもありませんが、その代償というか異常なほどの頻尿になりました。

何もそんなにガブガブ飲み物を飲んでるわけじゃない、食事のときにコップ一杯程度のお茶やスポーツドリンクを飲んでいるだけです。それなのに昼夜を問わず2時間置きに膀胱が破裂せんばかりの尿意に襲われるのです。まあ一時は腎臓がイカれて尿が出なくて全身パンパンに浮腫んでいたのでそういう意味ではよくなったんですが、いかんせん近すぎた。ダムが決壊したみてえにションベンばっか出てたもの。

なんならメシ食ってる真っ最中におしっこしたくなるんですが、1人で立ち上がれないし看護師呼んで机どかしたりするのもめんどくさいしそもそも間に合わないのでよくメシ食いながら「あああああああ……」と言っておしっこ漏らしてました。なんとも言えない感情になれるので皆さんもよろしければ一度ご自宅でやってみてください。

多分長いこと尿道カテーテルで全自動おしっこ排出人間になっていたため、おちんちんがガバガバかつ我慢する筋肉も退化していたからだと思われます。第4回のおまけでもちょっと触れましたが、退院後も意識ではちゃんと我慢できているのにいつの間にかお漏らしをしているおちんちんバグが発生しているので、早く修正パッチ出ないかなと思いながら日々を生きています。「おしっこ出そう」と心の中で思ったならッ! その時スデにおしっこは終わっているんだッ!

リハビリ中の筋肉「そこになければないですね」

そんなわけで本格的にリハビリの日々が始まります。リハビリ室に行くのは毎日14時~15時くらいまでの1時間程度。休日は理学療法士さんが休みなので病室内で自主トレになります。

リハビリの第一歩は0歩でした。寝たきりの人間が歩くためにしなければいけないことは何か? そう、立ち上がることです。深そうでめちゃくちゃ浅い哲学者の名言みたいなことを言いますが、「歩くには2本の足で立ち上がらなければならない」からです。リハビリではこういう普段意識しない人体の基本みたいなこととめちゃくちゃ向き合わされました。かの名曲「あたりまえ体操」でも「右足を出して左足出すと歩ける」という名フレーズがありますが、それは歩行のサビの部分であり、その前に意識を取り戻したり呼吸したり上体を起こしたりといったさまざまなAメロBメロがあった上での「歩ける」なのです。リハビリこそ本当の意味での「あたりまえ体操」だと思います。

あたりまえの尊さを教えてくれる素晴らしい楽曲

といっておじいさんがいきなり「よっこい庄一」と言って立ち上がれるわけもない。まず体を縛ったまま直立する電動ベッドみたいなのに寝かされて、ゆっくり立つ姿勢に起き上がらせていくということをやりました。バラエティ番組のプチ罰ゲームでこんなんありそうだなと思った。

こんなの。立位保持装置と言うそうです

皆さんも歩くときって足首をグッと前に曲げてるじゃないですか。ところが僕はずっと寝てたもんだからこの足首が完全に固まっていて曲げようとするとめちゃくちゃ痛いんですね。この角度を何十度かにしないと歩けるようにならんということで、ちょっとずつ足首の角度をきつくしながらただ立っているだけというリハビリをやりました。

それに慣れてくると次はベッドに座った状態から自分の足で立ち上がる練習ということになるんですが、立ち上がるって信じられないくらいマッスルなアクションなんだ、とおじいさんは思い知りました。ちょっとその椅子なり床なりからゆっくり立ち上がってみてください。太ももやお尻、腹筋などにまんべんなく力が入っているのがわかりましたか? おじいさんはその全部の筋肉がないので立ち上がれないのです。

どんなに僕が力んで踏ん張っても筋肉がなければどうしようもありません。筋肉もダイソーと同じで「そこになければない」のです。結果として僕は「ぐっ……がっ……ぎっ……」とか窮地に立たされたときの福本伸行漫画みたいな声を出しながらグニャグニャになってその場に崩れ落ちることしかできませんでした。

で、周りを見ると僕よりはるかにひょろひょろのおじいさんとかがひょいひょい立ったり歩いたりしているわけです。僕はまだ1歩目すら踏み出せていないのに。そのおじいさんだって確実に結構な病人ではあるはずですが、僕にはスピードとパワーを兼ね備えたパーフェクト超人に見えていました。現場からは以上です。パワー。(なかやまきんに君構文)

競馬が見れるくらい元気になる(馬券はめっきり当たらなくなる)

そんな感じで始まった絶望おじいさん生活ですが、本来はおじさんだったこともあり、やればやるだけ動けるようにはなっていきました。リハビリの先生も僕がただ立ったり座ったりするだけで「すごいすごい!」と激烈に称賛してくれるので、チート能力持ちで異世界転生したらこんな気持ちなんだろうなと思いました。

それまで人生で入院したことがなかった僕は、入院したら1日中ベッドでゲームしたり漫画読んだりする全盛期のニートみたいな生活ができるもんだと思ってちょっと憧れてました。実際入院したら「し、死ぬ……」という苦しみが24時間続くので全くそれどころではなかったんですが、少し体が動くようになってようやく暇な時間を楽しむ余裕が出てきました。死んだ目でおさるのジョージを眺めるだけでなく(第5回参照)水曜日のダウンタウンやYouTubeも見れるようになり、ちょっとしたゲームをしたりKindleで漫画を買って読んだりもしました。22時で病院のWi-Fiが切れちゃうのであらかじめ夜に見るアニメをNetflixでダウンロードしておいたりして、なんか昔の不便だったころのインターネット時代を思い出して懐かしくなりました。

HCUからスマホ解禁になりましたが、病室内での通話はNGだったので看護師立ち合いのZoom面会で家族と話すくらいでした。一般病棟になってからは自分で勝手にやってくれということになり、スマホのLINEやDiscordでの通話も可能になりました。

ということで一般病棟生活にも慣れてきたころ、学生時代の友人、ネットの友人、会社関係の皆さんなどいくつかのグループに分けてお話させてもらいました。長い間励ましの音声ラジオなどを一方的に聞いていたのでやっと直接お礼が言えて嬉しかったです。1回会社の仲間と雀魂をやったんですが、「頭を使うゲームができる……!」と自身の快復を実感しました。年明けくらいまでカレンダー見てるのに今が何曜日か曖昧だったりするぼんやり脳だったので。

家族とは毎週日曜日の15時にLINEを繋いでたんですが、この頃には僕の容態も安定しててそんなにしゃべることもなく、最終的には大井家全員で競馬中継を見守る謎の会になっていました(競馬中継が15時からある)。ちなみに病室で馬券を買ったバチなのか、病気以降びっくりするくらい競馬で勝てなくなりました(6月現在今年全敗レベル)。生き延びるので一生分の運を使い果たした説が濃厚です。

あと親父もこの頃になるとオンライン面会中でもいつも通り缶チューハイ飲んでて完全に「血」だなと思いました。アル中の親より先にアル中の子が病気で酒飲めなくなるのって親孝行なのか親不孝なのかどっちなんですかね。

そんな感じでリハビリも順調に進み、歩ける距離、階段の上り下り、トイレ、シャワーなど少しずつできることが増えていきました。3月になると無事バイオハザることなく抗菌薬(第6回参照)も終了となり、いよいよ退院が見えてきました。しかし退院はゴールではなく新たな人生のスタートだったのです。ポジティブなことばかりでなく、めちゃくちゃいろんな後遺症があるという意味でも。

ということで次回ついに重症急性膵炎闘病記・第一部完となります。(もし第二部があった場合は多分今度こそ死ぬので書けないと思いますが)

おまけ「病院食レビュー~米が文房具のりからパサパサになるまで~」

本編は以上となりますが以下投げ銭代わりのおまけ有料エリアとして僕が食べた病院食の写真付きレビューをつけておきます。この時期のGoogleフォトのハイライトが全部病院食の写真で「旅の思い出がこれしかねぇ!」状態になったので。

ベストもクソもない写真

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