小じさん第8/八話「私/僕 (小じさん)」

 う〜ん、う〜ん……

 私は部屋の中を、ひとつの壁から反対側の壁まで、何度も何度も往復しながら、うんうん唸っていた。
 今の私を誰かが見れば、それはまるでケージの中のハムスターが暇を持て余してチョロチョロ動き回っているような光景に映るだろう。
 いや、私はハムスターほど可愛くないか……。いやいや、そういう話じゃない。勝手に頭の中で想像したハムスターと自分とを比べて落ち込んでどうする。どうかしてんな、私!
 なんて、ひとりツッコミもむなしい。むなしいけれど、今の私が誰かに目撃されれば、間違いなく怪しまれる。まあ、その心配はないけど。ここは、私のひとり暮らしの巣。カーテンもばっちり引いている。誰にも見られる恐れはないのだ。
 とはいえ、私がどうかしているのは本当かもしれない。私が今、思考を巡らせているのもまさにそのことだった。

 それは言うまでもなく、小じさんのこと。
 私は今、小じさんのことを誰かに話してしまいたい衝動に駆られている。特に小じさんに口止めされているわけでもないし、言ってしまってもいいんじゃないかとも思う。
 でも、話せない。
 きっと、頭がおかしくなったと思われる。その後の友達関係がやりにくくなる。いちど頭がおかしいと疑われた場合、それを修復するにはとてつもない労力と時間がかかる。いじめられたり、ハブられたりしたら目も当てられない。
 人間関係は面倒だ。
 目に見えない仲間意識の輪がある。それは、透明な薄いベールのように人々の周りを取り囲んでいて、そこからひとたび外に出てしまえば、再び中に戻るのは至難の業だ。輪の中に留まるには、様々なお約束を守る必要があって、しかも、それらお約束は特に誰かが教えてくれるわけでもなく、各々自力で敏感に察知するしかない。
 本当に面倒くさい。でも、誰が悪いわけでもない。それは結局、“空気”のせいなのだ。人の集まりには“空気”があって、その“空気”の性質によって面倒くささが避け難く生じるというだけのことなのだ。
 空気は私たちにとって無くてはならないものである一方で、特に嗅ぎたくもない臭いを勝手に運んできたり、聞きたくもない音を勝手に伝えてきたりする。
 まあ、つまり、それだけのことなのだ。上手くやっていくしかない。
 それはいい。
 そんなの今に始まったことではない。
 それよりもだ。そんな人間関係の不安とは別にだ。私には今、ある信じられない感情が芽生えていた。それは、小じさんのことを誰か他の人に打ち明けてしまうと、もう小じさんは私だけのものではなくなるのではないかというような、言ってしまえば、独占欲だった。それこそが、今、私自身に驚きと戸惑いを与え、同時に、とてつもなく癪に障っている案件だった。
 小じさんに、してやられている気がする。負けている気がする。
 別に小じさんと何かを競っているわけではないけれど、なんとなく、小じさんには負けたくない!

 そんなことをあれやこれやと思い巡らせて、部屋の中をウロチョロしていたわけだ。結局、何も有効な落としどころは思い浮かばなかったけれど。
 まあ、いいか。
 ひょっとすると、本当に幻覚か何かで、小じさんなんて本当は存在しないのかもしれないのだし。まだ2回しか見てないのだから、いろいろとまだ、早い。
 少なくとも何か解決策が見つかるまで、小じさんのことは自分だけの秘密にしておくことにした。

   ※

 見飽きた天井。この部屋でひとり暮らしを始めて、もう7年か。今の会社に入ってから、ずっとこの部屋で暮らしている。同じ会社、同じ部署で7年。あくせく働いて、特にその苦労が認められるわけでもなく、特に首を切られることもなく、特に窓際に追いやられることもなく、ただ、あくせくと働くだけの7年。
 働くって何だろう。
 学生を終えて社会人になったばかりの頃は、これからたくさん努力して社会で活躍してやろうくらいの気概はあった気がする。もう、記憶の彼方だけれど、たぶん、そのような種類の気持ちは抱いていたと思う。
 今の僕にはそんな気持ちなど欠片もなかった。
 どうしてだろう。いつ、失くしたのだろう。
 働くということが思っていたよりもずっと厳しくて、僕は打ちのめされてしまったのだろうか。いや、そういうのではない気がする。
 社会が思っていたよりもずっと不公平で、まっとうに扱われないうちに、僕は社会に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。それは少しある気がする。
 でも、それもほんの少しだ。社会とは、組織とはそういうものだ。はじめから、それほど期待していなかった。
 若かりし頃の気概が、年とともに消えるのは何故だろう。わからない。
 それは、知らないうちに少しずつ失っていくもののように思う。
 社会には目に見えない無数の吸い取り口が空中に浮かんでいて、若い人たちから気概を少しずつ吸い取っているのかもしれない。その吸い取り口は、いわば社会に宿命的に存在する性質であって、どうすることもできない。
 よくわからない空想だけれど、それが1番しっくりくる。
 吸い取り口の数を減らすことはできるだろうか。ひとつひとつの吸い取り口を小さくすることはできるだろうか。吸い取った気概はいったいどこへ行くのだろう。わからない。
 結局、働くって何だかわからない。
 まあ、いいか。
 僕はいったん頭を空っぽにした。
 こうしてただ何もせず部屋で仰向けになっていると、頭は勝手に余計なことをあれこれと考え始める。だから、意識的に何も考えないようにする。
 いつもの天井。
 いつもの硬い布団。
 今は金曜日の早朝。もうすぐ、出勤の準備を始めなくちゃいけない。
 小じさんって何なのだろう。いったい何のために……きっと何か意味はあるに違いない。それが、僕にとってなのか、この人間社会にとってなのかはわからない。
 ひょっとすると小じさんは、人が働く意味について知っているかもしれない。聞けば何かしら教えてくれそうだけれど、小じさんには聞かないでおこう。なんとなく、小じさんにはこちらから何かの解答を求めてはいけない気がした。
 小じさんが勝手に何かを教えてくる分にはどうしようもない。不可抗力だ。そう、小じさんはいつも不可抗力なのだ。
 小じさんって、何なのだろう……。
 だめだ。
 僕は身体を起こし、首をふり、両手のひらでパチパチと顔を叩いた。
 このまま仰向けに天井を眺めるばかりでは、頭がくだらないことの思考をやめてくれない。
 僕は諦めて、少し早いが出勤の準備を始めた。

■これまでの小じさん


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