小じさん第四話「緑の小じさん(再び?)」
両足で小刻みにステップを踏む。顎先から汗が滴る。
「いっ!」
マスクの内側でおもいきり息を吸う。湿った空気をいくら吸い込んでも、酸素を十分に吸えている気がせず、苦しい。
「いっ!」
マスクが汗で顔に貼り付いて気持ち悪い。息を吸うとマスクが口を塞いでまともに息ができない。僕は諦めてマスクを顎までずり下げた。
「いっ!」
今日はラケットの面がボールに当たるときのインパクト音がおかしい。人の嗚咽のような音が、ボールを打つたびに聞こえる。
はじめは、他の誰かの打球の際に発する叫びが聞こえているのだと思った。テニスのプレー中に声を発することは、緊張を和らげたり、集中力を高めたりする効果があって、特に珍しいことではない。
上げる声は人それぞれの個性がある。「いっ!」は珍しいが、そういう人がいても不思議ではない。
しかし、それは何度聞いても僕の手元から聞こえていて、まさに僕がラケットでボールを捉える瞬間に鳴っていた。
そして、次にラケットを振ったときには、こう聞こえた。
「いてっ!」
僕は、その次に相手から打ち返されてきたボールをラケットで打つのではなく、利き手と反対側の左手でキャッチしていた。
「ふぅ〜」
僕じゃない。
今、安堵のため息のようなものを吐き出したのは、僕ではない。
明らかに、左手の中にあるこのボールから聞こえた。
僕はこのとき、何が起きているのかを9割型理解していた。あとは、この目で確かめて10割にするだけだ。
ひとまず僕は他のプレーヤーに順番を譲り、控えスペースへ退いた。先ほどキャッチしたボールを握ったまま。
ベンチに腰を下ろし、ようやく僕は手の中に収まるボールを見た。
それは、膝を抱えて身体を折り、背を丸めて、まるでテニスボールのようになった、緑の小さなおじさん――小じさんだった。
答え合わせ完了。僕は状況を完全に把握した。
小じさんはわずかに首をもたげ、顔をこちらへ向けた。こっそり様子をうかがうように。
顔面のパーツが何ひとつ無い、緑ののっぺらぼうがこちらを向いている。
「もしかして、バレとう?」
小じさんが言った。
「当たり前です」
「なんや、だいぶ腕上げたな」
テニスのことではないだろうが、僕はもうどうでもよくなってそれには答えなかった。
「今日は何しに来たんですか?」
「何て、テニスしに来たに決まっとるやろ」
僕は小じさんを黙って睨んだ。眼力の許す限り、力強く。
「お〜怖い怖い。ほんま冗談の通じんやっちゃなぁ」
小じさんはおもむろに僕の手の中で立ち上がり、ひょいと地面へ飛び降りた。軽快な身のこなしだった。背筋を正し、僕の方を向いた。
「マジな話、こうやってボールとしてテニスに参加するのも楽しいもんやで」
「あの、今レッスン中なんです。邪魔しないでもらえますか?」
僕もだんだん小じさんに遠慮がなくなってきた。もう、会うのは4回目なのだ。
「ちょっとぐらいかまへんや〜ん。見たところ汗だくやし息も上がっとるし、ちょうど休憩したいタイミングやったんちゃうか?」
小じさんはどこまでもマイペースだった。僕はやれやれと首を振ったが、特に反論はしなかった。もしかすると、僕はこれで小じさんを嫌いではないのかもしれない。
「今日は何を話しに来たんですか?」
「……なぁ、おもろい思わんか?」
小じさんはコートの方に視線を向けた。と言っても、小じさんに目は無いのだが。
ラケットとボールが衝突する打球音がひっきりなしに鳴り響く。4面のコートにコーチとスクール生が散らばり、各々にレッスンを受けている。活気に満ちた空間だ。
小じさんはどこか改まった空気を醸していた。
「普段の生活、人生のステージ、何から何まで異なる老若男女が集まって、あぁやっておんなじ緑の球をしばきおうとる。この球技に向ける思いもそれぞれ違うやろ。このひとつの空間に様々な人生が凝縮されとんのや」
たしかに同じコートの中には様々な人がいた。とうの昔に社会人を引退しセカンドライフを満喫しているようなご老人からバリバリの働き盛りの年代の人、さらに学生と思しき人まで、様々な人たちが分け隔てなく同じレッスンを受けている。
でも、僕はそんな人々の個々の人生にまで目を向けたことはなかった。
「なぁ。あすこの初老頃の旦那さん。緑のラケットのあの人や」
僕は小じさんが指す方を見た。僕と同じクラスでいつも一緒にレッスンを受けている人だ。打球が強めのハードヒッター。
「彼、いつも何考えてボール打ってはるか、教えたろか?」
「え? あの方と話したことあるんですか?」
「いや、ない。けど、わかるねん。ワイ、そういうの、わかるねん」
僕は再び、やれやれと首を振った。今まで僕が学んできた常識はいったい何だったのだろう。
「教えたろ」しかし、小じさんは構わず続ける。「彼な、家庭では奥さんの尻に敷かれとんねん。完全に。それはもう、見事なほどにや。家庭はそれでうまいこと回っとるようやから、もう今さら修正も利かへん」
そこまで言って小じさんは小さく息を吸った(ような気がした)。
「ほんで、そのどうしようもなく溜まった鬱憤をボールにぶつけとんのや。それで彼の精神バランスは保てとうわけやな。ワイもしばかれ甲斐があったわ。ちぃと痛かったけどな」
だからいつもやけに打球が強いのかと、妙に納得する話だった。人それぞれ、いろいろと大変な事情を抱えているのだなと思った。
しかし……
「あの、そんな他人の、ごくごく個人的な家庭の内情を知らされても、僕はちょっと困ります……」
「えぇやないか。ほんまかどうかわからへんねんし」
「は……?」
小じさんと話すと本気で殴りたくなる場面がある。しかし、僕はグッとこらえた。
「でも、ほんまやで。ワイにはわかるんや。ワイはお前さんたちの常識の外で存在してるさかいな」
「あの……ひょっとして、あなたとは一度会ったことありませんか? 緑色は一度、新宿で見かけました。ほら、年始の挨拶をした」
小じさんはため息を吐き出し、やれやれというふうに首を振った。どうして僕が、やれやれと首を振られなくてはならないのか、わからなかった。
「そういう話やないねん。ワイらの存在原理はな。ワイらはひとりでみんな、みんなでひとり言うたやろ? 言えるんはそこまでや。それ以上は、説明がめんどくさい」
説明が面倒かどうかの問題なのか。
「次いくで。あすこの若奥さん。ほら、オレンジのユニホームの……」
小じさんによる内情暴露大会はレッスン終了の時間まで続いた。
■これまでの小じさん
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