小じさん第5話「灰色の小じさん」

 あれは本当にあったことなのか、それとも何かの見間違いだったのか、ちょっと自信がない。でも、私は確かに見た。少なくとも、私のこのふたつの目にははっきりと映っていた。とことこ、人の往来を縫って可愛らしく歩く、顔のない、小さなおじさんが。

 ※

 私は落ち込んでいた。
 大学のゼミで教授が私の発表をコケにしたのだ。それはもう、悪口の限りを尽くして罵倒された。私の発表、そんなに出来が悪かっただろうか。

 いや、違う。

 教授は私のことが嫌いなのだ。その教授は、自分の個人的な好き嫌いで対応をガラッと変えることで有名だった。
 私以外のゼミ生は概ね優しくコメントされていた。どうやら私だけが教授のターゲットとして認定されたらしい。

 ムカつく!

 別に教授の下らない悪癖に対してムカついているのではない。何が最悪って、そのゼミには私が気になっている男子がいるのだ。
 しかも、この自分の気持ち、まだ自分でも気がついたばかり。できたてホヤホヤの恋心。

 なのに!

 彼の前で徹底的にコケ降ろされ、辱められたことが、とにかく気に入らない。
 ゼミの後、彼は優しく言ってくれた。

「僕は悪くないと思ったよ」

 そして、私の発表の中で本来ならば褒められるべき点をいくつか挙げてくれた。
 わかってる。
 私にもわかっている。
 あれだけ入念に準備したのだ。いくつかの点ではちゃんと自信があった。
 そこをきちんと彼が分かってくれていたことがせめてもの救いだった。

 それでも。

 こんなことがこれからも続くのかと思うと、私は憂鬱でたまらなかった。

 はぁ〜……

 そんな具合でやや俯き加減に往来を歩いていた私の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。
 人々の往来を縫って移動する小さな物体。それは2本足で歩く小動物のように見えた。全身灰色でアスファルトの色と区別がつきにくい。顔はのっぺらぼうで、小人――否、おじさん。そう、それは何の特徴もないのっぺりとした存在でありながら、どこかおじさん臭がした。
 私は目をこすった。見間違いだと思ったからだ。きっと猫か何かが、目のちょっとした調子のせいでおじさんに見えただけに違いない。今は心だって荒んでいる。それが視覚に影響した可能性もある。
 私はひとしきり目をこすったあと、改めて目を開き、猫――と思いたいものを視界に収めた。けれど、それはやはり小さなおじさんだった。人々の足の間を器用に抜けながら、次第にこちらに近づいてくる。

 小さなおじさん……
 小さなおじ……小じさん!

 私は心の中で早くもその存在に愛称を付けていた。落ち込んだ気分を少しでも紛らわしたかったのもある。
 小じさんがついに私の足元あたりに来たとき、驚くべきことが起こった。なんと小じさんがぴょんと高跳びを決め、私の肩に着地したのだ。

「な、なになに!?」

 街行く人々の中にあっても私は叫び声を上げずにはいられなかった。それでもどういうわけか、人々は誰一人として私のことを気に留めていない様子だった。
 何にしても、今や私の鼻先少しのところに未確認生物がいる。

「そんなことで悩んでんなや」
「何なんですかいきなり! ていうか、あなた何なんですか!」

 私はうろたえた。この状況でうろたえない人なんているだろうか。

「何って、ゼミでけちょんけちょんにされたことや。あんさんの意中の彼のこともわかってるで。ワイは何でもわかるんや」

 私が黙っていると、小じさんは続けた。

「もういっぺん言うで。そんなことで悩んでんなや」

 そこで私の頭もようやく追いついてきた。追いついてきたというより、何か喋らなきゃと思った。同時に言いしれぬ反発心も湧き上がってくる。

「そ、そんなこと、じゃないです! 恋愛を引退して久しい小じさんには、わからないかもしれませんが」
「えらいひどい言い方やな。しかも、小じさんて、揃いもそろってけったいな呼び方やなあ。あんな、よぉ聞けや。問題をごっちゃにしたらあかんで。その教授は確かにめんどくさいけど、あんたらの関係の直接の問題やないんや。そこ、見失ぉたらあかんで。ほなな」

 小じさんは言うだけ言って、ぴょんと私の肩から飛び降り、再び人々の間を縫って軽快に走り去っていった。

 ……な、何だったの? いったい。

 しばらく茫然自失と立ち尽くしていた私は、気がつくと不思議と心が少しばかり軽くなっていた。

■これまでの小じさん


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