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一人称 複数 将来性

 気を抜くと一人称が私でなくなる。

 普段はそんな馬鹿げたことはないのだけれど、長編小説を読みきった後などはつい主人公に引っ張られて一人称が変わってしまうときがある。
 もちろん、「わたくし」や「われ」など現代ではありえないものに変わるわけではない。
 しかし、時折「ぼく」になってしまうことがある。
 「ぼく」だなんて少年のような一人称は私には似合わない。それになにより私自身を過剰に着飾っているようで恥ずかしい。これなら意味もなくブランド物を身に纏うほうがましである。

 ただ、私が「わたし」でなくなった時、意外にも心がスッキリとしている時が多い。
 読後の満足感と言えばそれまでだけれど、それだけではないものを感じる気がする。
 推測に過ぎないが、それは停滞した私が一時的にでも私でなくなった故の解放感なのではないかと考えている。
 「わたし」が失われることで、決定された私は意味を失い、自由が不規則に這い出てくる。実際それらに意味はないのだが、空気に触れることで快感を味わった自由。それらの集合が解放感となって私に「ぼく」を進めているのではないだろうか。

 「ぼく」は「わたし」とどう違うのだろう。
 物珍しさだけなら、いずれ僕も私になり「ぼく」と「わたし」の違いはただの文字の違いだけになる。
 それが実際悪いことなのか、深く考えるとわからない。それでも感覚的に気持ち悪さを感じるので、恐らくはよくないことなのだろう。
 「ぼく」はどうしたい。僕の思考を探ってみたけれど、僕は私でしかなかった。
 人工物ではダメなのだろう。
 違いは自然の中にこそ生まれる。

 今度「ぼく」になった時は、紙とペンを手にとって頭の中を書き出してみよう。
 そうすれば2つの違いと新しい発見が見つかるはずだ。
 もしかしたらその時、僕は「ぼく」への気恥ずかしさを感じないのかもしれない。
 そんなことを考えていると自然と口角が上がっていた。
 たぶんそれは私。
 
 
 
 

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