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癒えない傷を抱えるあなたへ

死んでいてもかわいいと思ってしまった。

新築のアパート。
白いコンクリートに広がる血。
いつかの小説で読んだ
美しいコントラストを描いていた。

人を殺したことがあるか。

無いならば怪我をさせたことがあるか。僕は一度だけ。君の手を、爪を立てて握りしめて、君の手の甲に傷をつけてしてしまったことがある。無意識だった。僕の爪先の形に沿って剥けた皮、そこから覗く血の滲んだピンク色の肉を見たとき、僕の目は眩んで、視界がぐらりと大きく傾いた。ごめんと小さく何度も呟いた。傷だらけの君の手の甲は、撫でると隠れようとした。それでも撫で続けると心を開いたこねこのように大人しくなってしまった。
一方、君は僕を何度も傷つけている。それはもちろん精神的にも傷はつけられているし、肉体的な傷もだ。平手打ちをされたこともあるし、刃物を向けられたこともある。でも同時に、君は自分自身を傷つけるのも得意だった。

僕らは大きな喧嘩をしないように、お互いに感情的に怒らないことを誓った。その日から君は怒ることをピタリとやめた。人はこんなに短期間で成長できるのかと感動したのも束の間、君はリストカットをするようになった。君の怒りが大きければ大きいほど、傷は長く深くなっていた。
君の体の傷を見ると目眩がした。これは君が痛そうだからとか貧血気味だとかそういう問題ではない。君の体に刻まれていく傷は、僕が君につけた傷を表しているだけのものだった。痛々しい傷は増えていく一方だった。それだけ僕が君を傷つけていると思うと、まるで全て僕が悪いみたいだ。全て僕のせいにされているみたいだ。ストレスだった。僕は泣きながら、感情的になってもいいから傷つく行為、傷つける行為はもうやめようと誓った。

自傷行為はなくなって、君の腕の傷が白い筋のようになってきた頃。君は感情を言葉に表すようになった。それは問い詰めるようなときもあれば、皮肉のようなときもあって、一言の暴言のときもあった。

5月25日、君は僕に「死ね」と言った。

だから押した。力強く蹴った。これは使命だった。正義だった。義務だった。

ねぇ、ずっとつらかったよ。僕が先に死んだとして、残された君が毎日泣くのを想像すると涙が止まらなかった。君が先に死んでしまったとして、僕は悲しみに昏れる日々を過ごすだろう。でも僕のことだから、すぐに君のために前向きに生きようと決意できる。たまに思い出して泣くことがあっても、君の死を受け止めて諦められるだろう。僕が生き残るならば何の心配もなかった。君に寂しい思いをさせることも、君を自殺に追い込むこともない。
手で強く押した感覚はまだ残っている。足の裏にも蹴った感覚が。幅跳びのように強く蹴ったつもりなのに、僕は少しも飛べなかった。君の顔を見ないようにしようと思ったのに、体が反転してしまった。そのまま背中で風を切った。半端じゃない重力で僕はそのまま地面に叩きつけられた。飛び降りるときに意識が無くなるなんて嘘だ。僕は最後まで君を見ていた。柵から顔を出し、こちらを覗く君を。

家まで迎えに行くと、君はいつもこうやってベランダの柵から下を眺めた。目が悪い僕は君のシルエットしか見えていなかった。でも今は、柵に絡みつく指のひとつひとつ、震える口元、涙を流す目まで、はっきりと見えた気がした。

後頭部が温められる感覚がする。
耳鳴りで音は何も聞こえない。
ほんの少し欠けた月の光が、心做しか眩しい。
激しく動揺して震える君も同じく欠けた月に照らされている。ここに広がる僕の血も、形の乱れた僕の体も、全てが照らされて、輝いているはずだ。君からもはっきりと見えていたかもしれない。でも君は、僕を追ってこようともしない。血まみれで足腰の崩れた僕の姿はよく見えているはずなのに。僕は君のそういう、人間らしく図々しく、死ぬ勇気の無いところが大嫌いだったのかもしれない。でも君の崩れた泣き顔は、後悔や苦しみや悲しみや怒り、複雑に感情が混ざりあって生まれた、君なりの愛の形だから。もう死んでしまっていたけれど、そんな顔がかわいいと思ってしまった。


おやすみなさい。

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