「有事の際」に仏教が果たす役割とは
ロシアがウクライナに侵攻しました。私自身はウクライナ人の友人がいるわけでもないし、仕事やプライベートでウクライナと直接的な関わりはありません。でもウクライナの人たちが理不尽に日常を奪われ、大切な人とも離ればなれの辛い生活を余儀なくされている様子は心が痛みます。そして「戦争」という悲劇をおっ始めたロシアのリーダーに怒りを覚えます。
ところで昨日(3/11)は11年前に東日本大震災が起きた日です。私は会社のオフィスにいたので当日も帰宅困難者になりかけましたが、数時間かけて歩き、深夜に自宅にたどり着いたのを今でも覚えています。津波で大切な家族や思い出の詰まった家を失い、今も悲しみに暮れる被災者がたくさんいることを、この時期になると改めて思い知らされます。また「天災」の前にいかに人間が無力であるかということも。
ロシアによるウクライナ侵攻という「戦争」、そして東日本大震災という「天災」はどちらも私達の日常を破壊する「有事」と言われるものです。
この「有事」の際に宗教、今回は「仏教」が果たす役割について自分なりに考えてみた結果をお伝えします。(ちなみに次回は儒教です)
①「戦争」における「仏教」
まず、ロシアのウクライナ侵攻に対して仏教界はどんなコメントをしているのか見てみます。
例えばチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマは以下のような感じ👇
その他、世界の仏教者からの声明はこんな感じ👇
日本の仏教界だとこんな感じ👇
ということで現代仏教界からの声をまとめると
こんな感じです。
正直、私はこの仏教界からのコメントを見て
「あぁ、こういうときに仏教にできることはないんだな・・・」と思いました。
ものすごく悪い言い方ですが、侵略者に対して「命は大切だ」「暴力はよくない」「対話が重要だ」なんて仏教者の立場じゃなくても言えるコメントじゃないですか。
この仏教界からのコメントはプーチンにしてみれば「そんなこたぁ、言われなくても分かってるよ。でも自分たちの正義(都合)の方が重要なんだから仕方ないじゃないか」と、人の命を奪ってでも成し遂げたいコトがあるからこそ戦争を始めたわけで。
例えば、仏教の教義や世界観に基づいてプーチンやロシアがしている行為がどれほど道に外れているのか、この後どんな天罰が下ることになるのかを淡々と解説できないのか?とか。※仏教ってそういうのじゃないと分かってて書いてますが
また、ウクライナの人達に対する「祈る」や「寄り添う」というコメントも仏教者としての立場だからこそ言えるコメントってないのかな?と思いました。現に多くの市井の方や著名人がこういったコメントを出していますし。祈るって言うとむしろキリスト教っぽいような。
ちなみにキリスト教界からもコメントは出てます。
なお誤解の無いよう言っておきたいのですが、私は決して
「こういうコメントは無意味だからやめた方がいい」といいたいわけでは断じてありません。
言うまでもなく良くないのは「見て見ぬ振り」「何もしない」ことです。このように影響力のある宗教者や団体がプーチンやロシアの行為を批難しウクライナ支援のメッセージを発することは非常に大きな意味があります。
そもそも、こういう有事の際に「仏教ならではのコメント」をしなければならないというルールもありません。
私が言いたかったのは「戦争」という社会の安定を根幹から揺るがす「有事」を前に、仏教がそのアイデンティティを発揮して世界の平和や人々の癒やしに貢献できるところは意外と少ないということです。
では仏教は「有事」に対し無力なのか?というとそんなことはなくて、同じ「有事」でも「天災」に対して仏教はその本領を発揮するように思います。
②「天災」における「仏教」
東日本大震災で仏教が果たした役割はとても大きかったと考えられます。なぜなら、あまりに多くの人が同時に「死」に直面せざるを得ない状況に追い込まれ「救い」を求めたに違いないからです。
人間、生きていれば家族や友人・知人が亡くなり「遺された側」として当事者になることは必ずあります。でも、医療が発達し平和な現代の日本にいれば、当事者になる頻度はそれほど多くなく、年齢にもよりますが平均すれば数年に一度ぐらいではないでしょうか。
平時であれば故人の最期を看取ったり、葬式で最期の別れをしたり、墓前で故人を想ったりする中で、時間を掛けて少しずつ大切な人の「死」に向き合うこともできます。でも有事の場合はそういった過程が一切なく、突然目の前から大切な人がいなくなってしまいます。
仮のその原因が人為的なものであれば、例えばその首謀者を恨むことで故人の死に自分なりに折り合いをつけることができるかもしれません。
「進撃の巨人」でいうと主人公のエレンみたいな状況です👇
でも東日本大震災では、大切な人の命を奪ったのはこれまで自分たちの生活を支えてきた「豊穣な海」つまり自然でした。自然には感謝こそすれ恨みようがありません。恨みのぶつけようがないのです。
天災によってこの根源的な「問い」が同時多発的に発せられた時、その苦しみに救いと癒やしを与えられるだけのキャパシティをもっているシステム(社会的インフラ)といったら私は仏教以外にありえないと思います。
なぜ仏教だけがこの要請に応えられると思うのか?理由は2つあります。
1つは単純に「仏教の教義」がその「問い」にドンピシャだから。
もう1つは、仏教の社会インフラとしての整備がダントツだからです。
仏教の教義が問いにドンピシャ
仏教はそもそも、王族出身で衣食住が充足した何不自由ない生活を送っていた青年(ゴータマ・シダッタ)が、生老病死という人間の根源的な苦しみから逃れたくて見出した方法論(世界の捉え方)が原点であり、その根本は「個人の救済」にあります。したがって、人間の苦しみがどのようなメカニズムで起こり、どうすれば消せるのか。あるいは現世の生死のみで人間の一生を捉えない世界観がしっかり整理されています。この仏教の教義は大切な人の突然の「死」に直面し苦しむ人達の救いや癒やしの特効薬になり得ると考えられます。
仏教のインフラ整備がダントツ
もう1つの理由は、仏教は他の宗教や信仰と比べてインフラとしての整備具合がダントツです。
まずソフト面でみると、とにかく教義がめちゃくちゃ体系化/整理されています。宗派ごとに宗旨の差異はあるものの、どの経典にどんなことが書かれていて、こういうときにはこういう経典を読むとか、それをどのように人々に分かりやすく説くのかといった僧侶の教育体系がしっかりと整備されています。
ハード面で見れば、日本では至る所にお寺があります。2018年のデータですが、日本にお寺は7万7,256あるそうです。コンビニより多いです。よほどの辺境でも無い限り日本中どこでも数十分も歩けば必ずお寺にたどり着けるということです。
最近は法人化も進み組織として動く体制も整っています。東日本大震災では宗派の垣根を超えた超宗派の取り組みもされていました。そういった横の繋がりで動けるのも仏教のインフラとしての強さの現れだと想います。
(最近は檀家が減ってお寺の存続が難しくなり、お寺があるからといって必ずしもそこにお坊さんが常駐しているとは限らないようですが…)
ちなみにインフラの話でいうと神社はお寺よりさらに多くて8万1,158社あります。ただ神道の教義で「大切な人の突然の死」に苦しむ人への特効薬として救いや癒やしを与えるのはなかなか難しいような気がしています。(そんなことはない!という神道に詳しい方いたら是非コメントください)
さいごに
今回は有事における仏教の役割について考えてみました。
プーチンのように身勝手な正義で他者を蹂躙することを厭わない人が現れたとき、仏教でこれをどうにかするのは実際のところ難しいと思います。なぜなら仏教の根本は「個人の救済」にあるからです。苦しんでいる人を救うには向いてますが、プーチンのように道を踏み外す人が出てきたときにそれを正す力学としては不向きかなと思います。
その点、仏教と同じく東洋発祥の儒教なら「プーチン、それはアカンで!」とビシっと言うことができます。なぜなら「道を踏み外す」とはどういうことか、とか「正しい」とはどういうことか、そういうことばっかり説いてきたのが儒教(儒家思想)だからです。
なお、先日亡くなったティク・ナット・ハン師が推進していた社会参画仏教(エンゲージド・ブッディズム)は仏教の中でも社会を志向した考え方ですがまだ歴史も浅く2,500年前から継承されてきた儒教のようなビシっと感は私には感じられませんでした。(エンゲージド・ブッディズムについてちゃんと理解しているわけではないのでそんなことないよ!という方いたら是非教えてください)
次回は
「有事」の際に儒教(儒家思想)が果たす役割について。
おまけ
上の結果は、必ずしも「仏教が東洋思想の代表と認知されている」ことを示す結果ではありませんが、個人が自由に発信できるnoteのコンテンツ流通量としてもこれほどの差があるというのは、やはり
「そもそも仏教以外の東洋思想をよく知らない」
っていうのが一番大きいんじゃないかと思います。昨年の大河ドラマで渋沢栄一と論語フィーバーが来たはずだったのでは・・・。
「 #神道 」ですら2,457件あることを考えると、日常生活でその存在を意識することが重要なのかもしれません。
(現代の日本で儒教を感じる瞬間なんて、長崎の孔子廟ぐらいか!?)
つづく。
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