見出し画像

群盲ゾウを評す

「群盲(ぐんもう)象を評す」というインドの寓話をご存知でしょうか?「世界の見方、物事の捉え方」について色々と示唆に富んで面白いので紹介します。

お話自体はとても短くて、こんな内容です。

あるとき、群盲(目が不自由な人たちのグループ)が、生まれて初めて「象」というものに触れる機会があった。彼らは好奇心のままに象に手を伸ばし「象」とはどういうものなのか理解しようとした。

ある者は象のを触り、ある者は象のを触り、ある者は象のを触り、ある者は象のを触り、ある者は象のお腹を触り、ある者は象の尻尾を触った。そうして「象とはいったいどういう生き物だったのか?」問われた彼らはこう答えた。

「象というのは、のような生き物であったぞ」 (足を触った盲人)
「いいや、象とは木の枝のようだった」 (鼻を触った盲人)
「いえ、あれはという方が正しいのでは」 (耳を触った盲人)
「いやいや、あれはパイプのようなものに思えたが」 (牙を触った盲人)
「え? あれはみたいなものだったでしょう」 (腹を触った盲人)
「いや違う。象とはのような生き物だ」 (尻尾を触った盲人)

どれも正しいけど、どれも正しくない

足も鼻も耳も牙も、すべてという生き物を構成し特徴づけるパーツであり、その意味で個々の回答は決して間違ってはいません。また、象の足を「柱のようだ」と表現したり、象の牙を「パイプのようだ」と表現するのもそれ自体は間違っていません。ただ、それが象の説明として十分かというと、そうではありません。つまり、個々の事実は正しいけど、象という全体像(ゾウが被ってるけど)を理解するためのという観点からいえば、「象とは柱のような生き物である」という認識は正しくないわけです。

これって、私たちの日常生活でもよくある話で、

「〇〇ってアレでしょ?△△のことだよね。知ってる知ってる!」

というように、自分にとって「分かりやすい」「都合がいい」「手に入りやすい」といった理由で、物事のほんの一側面を捉えたに過ぎないのに、あたかもその全体像を把握したかのように思い込んで(パターン認識して)しまいがちです。有名な「アヒルとウサギのだまし絵」のように、その人の見方によってあらゆる物事の捉え方は変わってしまうわけです。

ということで、この寓話からは「多角的に見ないと、物事の真実の姿を知ることはできないよ!」という示唆が得られます。
でも、こういう「木を見て森を見ず」を戒める教訓のお話ってよくありますよね。そこで、この象の話に「仏教でいう””の概念」も加えてもう少し考えてみます。

じつは象なんていない!

諸行無常という言葉があるように、仏教の基本的な考え方のひとつに「この世のあらゆるものは絶えず変化し続けており、永遠に変わらない固定的なものなんて一つもない」というものがあります。

「群盲象を評す」の寓話では、群盲達が「象の一部分」を捉えたに過ぎないのに、それが「象の全て」だと思い込んでしまう様を示していたわけですが、そもそも「”象の全て”なんてもの自体が無い」というのが””という考え方です。

「象であるための条件」とか「象を象たらしめている要素」は何なのか?という話になるのですが、

たとえばWikipediaには、象の定義についてこう書いてあります。

生物学的には「象」というのは哺乳綱ゾウ目(長鼻目)ゾウ科の総称を指し、アフリカゾウとかアジアゾウとかの分類がされているようです。
でもこれって全て、私たち現代人が「象ってこういう定義にしようぜ!」と便宜上、一時的に決めただけの象の定義です。でも、アフリカのサバンナあたりで日常的にアフリカゾウの近くで暮らすライオンやチーターからすれば、Wikipediaに書いてある象の定義なんて知るわけがありません。ライオンやチーターには彼ら(彼女ら?)なりの「(あいつ)」という認識の仕方があるはずです。(それは知性でなく本能によるものだと思いますが)。

つまり「象にはコレとコレとこういう構成要素があるべきで、こんな条件を満たすのが象だ」という固定的な定義をしてしまうことが、逆に「象の全体像」を把握することから離れてしまうわけです。なぜなら、それは限定された価値観(世界観)から象を見た時の認識であり、象そのものではないからです。

将来、もし人類が死滅して野生動物だけが地球環境に生き残り続けられるとしたら、”象”という概念は地球上からなくなりますが、この耳が大きく鼻が長くて牙のある生物がそれに合わせて消えてなくなるわけではありません。

だから、象なんてものはそもそも存在しないということになるわけです。

とはいえ、定義(ラベル付け・分類)が無いと色々と不便なのは確かなので、何らか定義を置くのは理に適っています。ただ、それは永遠に変わらない固定的なものでは決してないわけで、「まぁ、これは一時的な定義なんだけどね」っていう意識を自分だけでも心の片隅に持って対象を理解しようと努めることで、無用な固定観念に囚われることが減るのかなーと思います。

おしまい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?