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ポジティブな原体験

世の中には「”原体験”の自覚がある人」「”原体験”の自覚がない人」がいるのではないか、と最近思うようになりました。

この”原体験”という言葉は、”自分の軸”と言い換えてもいいと思います。

つまり、
「”自分の軸”に気づいている人」「”自分の軸”に気づいてない人」がいるのでは、ということです。

ということで、今回は”原体験”についてちょっと考えてみました。

原体験って何?

そもそも”原体験”ってどういう意味なんでしょうか?ググってみると色んな解説が見つかりますが、一般的には以下のように定義されています。

その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。(デジタル大辞泉)
記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験。(三省堂 大辞林)

つまり「自分が大事にする考え方や生き方を決定づける出来事」という感じでしょうか。

この「原体験」ですが、私は以下の2種類が存在すると思います。

●「ネガティブな原体験」
●「ポジティブな原体験」

ネガティブな原体験とは

「ネガティブな原体験」とは、自分が望んだわけではないのに降りかかってしまった、悲惨で苦しくて受け入れがたい出来事です。

■例えば【病気】

日本の競泳界の若きエース池江璃花子選手が白血病を発症し今も闘病中であることは記憶に新しいかと思います。いつか病気を克服してくれるものと信じていますが、発症してから彼女の人生観や価値観は、発症前に持っていたそれとは全く変容しているのではないでしょうか。

■例えば【事故】

平成6年にバイク事故で大怪我を負ったタレントのビートたけしは、著書の中でこう述べています。

『人生って、生まれながらにして死ぬ時のその対応の仕方をいかにして模索していくかが人生のような気がする。息抜きに色んなことをしてるだけであって、基本ラインは死ぬことに向って一直線に突っ走ってて、それに人間はどう対応するんだろうかってだけのような気もする。だからおいらにとって、今度の事故というのは凄いショックだったね。物理的なショックのみならず、精神的ショックがマグニチュード8という感じだった。』
(新潮社「たけしの死ぬための生き方」 )

つまりバイク事故がきっかけで自分の「死生観」が大きく変わったと述べています。

■例えば【災害】

最も身近な大災害で言えば1994年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災でしょうか。当時、阪神淡路大震災を経験した若者が、いま関西で起業家や社会活動家として活躍している事例はたくさんあります。また東日本大震災で家族や家を失った子ども達がいま社会に出始めています。日常が津波に流されていく光景は、彼ら・彼女らの価値観、人生観の形成に大きく影響を与えたのは間違いないと思います。

■例えば【戦争】

原体験としての「戦争」が人に与える影響は言うまでもないですね。戦後の高度経済成長期を支え、日本を世界第2位の経済大国に押し上げた昭和の企業家・経営者たちの著書や著述を見れば明らかなように、その原体験は太平洋戦争です。現代、この瞬間にも中東やアフリカでは今も戦争が続いており、死と隣り合わせの生活を余儀なくされている子ども達がたくさんいます。いつか彼らが成長して社会に出て、ビジネスの場で日本の子ども達と渡り合うようになったら、どれほど手ごわい相手になることでしょうか。

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このように「ネガティブな原体験」というのは、自分自身や自分の大切な人の命の危険にさらされる、悲惨な光景を目の当たりにする、耐え難い苦しみに放り込まれるといったことで、これまでの自分の価値観や世界観が崩壊し、新たな価値観や世界観が形成されることです。こうして形成された新たな価値観はやがて自分の中に「絶対に譲れないコト」「何としても守りたいモノ」といった信条・信念という形で強固な””となり、この””が自己肯定感(自信)に繋がり、発信力や行動力に繋がっていくのだと思います。

では、生まれてから一度も「ネガティブな原体験」に遭ったことがない人には””がないのでしょうか?

現代に生きる私たち日本人の多くは、生まれてから今まで大きな事故や病気にあうことなく、災害や戦争とも無縁で日常生活を送れている人の方が圧倒的に多いです。これはとても幸運なことなのですが、恵まれた私たちは、不運にも「ネガティブな原体験」がある人には敵わない、ということになるのでしょうか?

私は「そんなことは決してない」と思います。その理由を「ポジティブな原体験」と「自覚」という観点から考えてみます。

ポジティブな原体験とは

「ポジティブな原体験」も「ネガティブな原体験」も、それまで自分が抱いていた価値観が崩壊し、新たな価値観が形成されるという点では同じです。ただ、その価値観の再構築に本人や大切な人の命が危険にさらされたり、耐え難い苦痛を伴わない(どちらかというとハッピー)な点が異なります。

「いやいや、そんな都合のいい体験なんてどこでできるの?w」

と思うかもしれませんが、私はいくらでもあると思います。

■例えば【本】

自分の生き方や価値観を決定づける「人生の指針」「座右の書」となる本に出会うことは、誰にだって起こり得ます。たまたま本屋で手に取った、誰かに勧められた、授業で読んだ。きっかけは何であれ、その本を読む前と読んだ後で世界の見え方が変わるような体験をしたことがないでしょうか。もし無いのであれば、そういう本が世界のどこかに必ずあるはずだと信じて本を読みまくりましょうw

■例えば【芸術・哲学】

哲学も広い意味では芸術に含まれますが、どちらも「世界の見かた」を探究するという点では共通しています。自分の認識とは全く異なる「世界の見かた」に触れたとき、自分が持っていた既存の価値観は崩れ、新たな価値観が作られるのではないでしょうか。

■例えば【人】

尊敬する人、憧れの人、この人みたいになりたい、目標だと思える人、そういう人と何かの縁で出会って話をするだけで、既存の価値観の崩壊&再構築が起きるはずです。つまるところ、人は人にしか影響され得ないと思うのです。

上に挙げた例を見てもわかるように「ポジティブな原体験」というのは、その気になれば誰でも得られる、特別なものではありません。だからこそ、その体験をどう解釈するかの”自覚”が重要です。

ポジティブな原体験は「自覚」しづらい

冒頭で世の中には「”原体験”の自覚がある人」「”原体験”の自覚がない人」がいると述べましたが、これは「どんな人にも原体験と呼べるものは必ずあり、それに本人が気づくか気づかないかの違い」ということです。とくにネガティブな原体験と比べてポジティブな原体験は自覚しづらいという特徴があるような気がしています。

「今思えば、あの本に出会ったのがきっかけだったなぁ」
「あの人に会ってなかったら、今の自分はないだろうなぁ」

といった具合に「後になって振り返ってみると、あれが原体験だった」という後から気づくことができても、価値観の崩壊&再構築を体験してすぐそれに気づけるかは、その人次第です。その気づくまでの時間の長さ故に「自分の価値観が崩壊&再構築したことに気づかない(気づかないフリ)」をしてしまうと、せっかくの貴重な原体験も台無しになってしまいます。

まとめ

ということで、まとめますと

・原体験とは、自分の既存の価値観を崩壊して新しく再構築すること。
・原体験には、ネガティブな原体験とポジティブな原体験がある。
・どちらが上とか下ということはない。ただ、もし今までネガティブな原体験がないまま生きて来られたのなら、それは超ラッキーで幸せなこと。
・ポジティブな原体験は、その気になれば自分でいくらでも作れる
 - 本をたくさん読む
    - 色んな人に会い、話をする
    - 良い芸術・哲学に触れ、色んな世界の見かたを知る
・価値観の崩壊&再構築を自覚できるかどうかはその人次第。普段から自分の価値観について自覚的・整理している人は自覚が早い。

おしまい。



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