2018年7月に本を読んで考えたこと

なんか隙間時間の読書ばっかりだった気がする。通勤回数が少なかったからか。


◾さよなら、インターネット(武邑光裕)
GDPRはもちろんだが、それに限らない現在前線のインターネットの論点を整理するには最適な本だと思った。結論ではなく、問いを整理する本。識者たちの刺激的な引用にあふれていて、それだけでも読み応えがある。読み直そうと思って、しかも短期間にちゃんと読み直した。めずらしい。

「オープン・ネットワークとしてのインターネットは、1990年代後半からシリコンバレーに集中するビックテック企業の配下に変貌した。「インターネットの夢」はいつしか一部のIT巨人の経済テキ利益を生み出す独自のエコシステムに変貌してきた。
初期のインターネットに思い描いた夢は幻だったのか?」

この本を読めばGDPRの大枠と基本的な考え方を理解できるが、それだけではない。ぼんやりとした背景理解にいくつもの補助線と新たな軸を与えてくれた。
ここではGDPRの中身はわざわざ書かないけど、気になったことをいくつか。

「ヴェーバーによれば、「世俗内禁欲」(プロテスタンティズムの倫理)に基づく、富の蓄積と投資が「資本主義の精神」を生んだ。
バタイユはさらに、ルターの宗教改革は経済活動の根本に作用し、宗教的祭儀を中心とした経済の「蕩尽」を排除くる社会を生み出したと指摘した。
贈与や蕩尽より、生産と蓄財を重視する社会が形づくられ、社会に累積したエネルギーこ消尽行為そのものが、社会から忌避され、呪われていった。「余剰」の「蕩尽」を実施する宗教祭儀によぅて支えられていた共同体は、富の「蓄積」と「投資」をめざす個人主義と資本主義に邁進する。社会に累積した余剰エネルギーの消尽は、民衆のための大規模な祭典の開催や荘厳な教会建設ではなく、軍事技術の発散と消尽の場となる戦争を拡大させた。」
これはいささか、近代以前を過大評価してきらいがあると思った。

(所有権が物理的な商品購入お同等の権利を得れるという前提について)「デジタル経済ではその想定は困難となる。消費者が専用カプセルの「間違った」ブランドを使用したときに停止するコーヒーマシンはひとつの例に過ぎない。人々は、製品を購入する際に自由な選択肢があると思い込むが、実際にはそうではないこと、そして自分には自由にコーヒー豆を選ぶ余地がないことを納得する以外にない。」

「データと情報には明確な違いがある。データは数字と事実の集合であり、「データ」のラテン語源「ダーレ」は「何かが与えられ」、「見るのに適している」という意味を含んでいる。データに構造が与えられ、一貫性こある形で編成、解釈または伝達されると、それが情報に昇華される。
GDPRは個人情報以前の個人の「データ」に立脚する。現代の個人データは、インターネット上を駆け巡るデジタル・データである。わたしたちのシンプルだった個人データは、わたしたちを広範囲に追跡し、わたしたち自身から外部化される。そうなると、そのデータは自分自身では制御できず、サイバー空間に漂流するアルゴリズム・アイデンティティに変貌しているのだ。
人生はアルゴリズムに支配されていると指摘したのは、米ミシガン大学のジョン・チェニー=リッポルドだ。彼は「われわれはとっくにデータとなっている」と指摘し、アルゴリズムにさまざまなかたちで影響を受ける人間社会に警告を発した。
コンピュータにはデータが必要であり、人間には情報が必要となる。」
僕は情報とデータの違いに僕はあまりに無頓着だった。

「元欧州議会議長で2017年9月24日のドイツ首相選挙えまアンゲラ・メルケルに破れたマルティン・シュルツは2016年1月28日、ブリュッセルてま開かれたCPDP総会で、「技術的全体主義、政治と民主主義」と題した基調講演を行い、次のように述べている。
「もし個人情報が21世紀の最も重要なコモディティであるなら、個々人のデータに対する所有権の権利が強化されるべきです。とくにこれまで何も支払わないでこの商品を手に入れている狡猾な人たちに反対することです。フェイスブック、グーグル、アリババ、アマゾン----。これらの企業が新しい世界秩序を具現化していくなど、それは許されるべきてはありません。彼らはそのような権限を持っていません。民主的に選出された民主的代表のルールが合意され、法律を遵守することは適切か任務でありつづけなければならないのです。規制当局がとった決定に同意しない者は、市民社会の努力と政治的手段によってそれらを覆すことを求めることができます。このプロセスを民主主義と呼んでいるのです」」
民主主義が機能しているかという問題が、また別の議論ではある。チャーチルの言ったように「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という言葉もある。いずれにせよ、僕は資本主義世界価値観における市場民主主義的合意形成に対してはNoを突きつけたい立場ではある。
もちろん、GDPRに対する批判も別の立場として書かれてはいる。デジタル後進国になるのが良いことなのか、と。

インターネットはどうあると素敵なんだろね。
果たして僕らは有料のフェイスブックやインスタグラムをやりたいと思うのだろうか。オプトアウトすると有料になる仕組みだとどうだろうか。それはは、あなたの隣人はどうか?親は?と想像して問うこと。

「企業がAIのパワーを蓄えている間に、マイナーな規制や経済制裁だけで社会改革を実行することは不可能だ。しかし、個人データの国有管理となれば、政府の監視能力は飛躍的に高まり、新たなリスクを生み出す。民間企業の自然独占が続けば、一部のIT巨人のデータの経済と市民監視の支配力はさらに増大する。この中間地帯に、個人データの「コモン」への移行を探求心する道がある。」

■無意識の構造(河合隼雄)

一先ずの現在点として、意識の上に無いこと、意識できないことに、心寄せられている。こんな風にある種のオカルト(と言うと失礼かもしれないけどあえて言うと)と接着した部分に、自分が関心がよるとは思っていなかった。
信じられるものがあると感じるからだからこそだし、意識と明晰性に頼った進歩のあり方に対する違和感に答えたいという思いがあるのだと思う。

「創造過程に伴って、エネルギーが自我にもたらされるが、それのっ運びてとなるのはシンボルである。自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこには適切なシンボル形成が行われなければならない。
このことを人間の集団に適用して考えてみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、なんらかのシンボルを見いだすと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになる。これは宗教におけるシンボリズムについて考えてみると真に明白である。初期のキリスト教における十字架のシンボルが、どれほど大量の心的エネルギーを民衆の中に動かしたかは、誰しも知るとおりである。(中略)
シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。十九世紀西洋の合理精神は、多くのシンボルを殺し、世界中の宗教はまるでシンボルの墓場の感を呈するようになった。このような「啓蒙」精神が多くの迷信を打破し、人間がより自由になったことは認めねばならない。しかし、このようなシンボル殺しによって、人間にとって重要な生命力の一部分まで破壊されたのではないかという反省も、生じてきたのである。」

ここで言うシンボルというのは、無意識に対して働きかけの出来る、言ってみれば(稚拙な言葉だが)暗号のようなものの、イメージと言えるだろう。理由は説明できない、理由や効果を説明しようとすると力を失っていくというのは、意識上にたどり着くと逆に感じられなくなってしまう力の存在を思える。あるいは、シンボルは意匠物だけではなく、風習やイベントごとにもあらわれ得るだろうと思う。

◾我々は人間なのか?- デザインと人間をめぐる考古学的覚書き(ビアトリス・コロミーナ)
上空はるか高く、宇宙から地球の歴史を眺めるようなテキスト。それは思弁的実在論やパウルクルッツェンの人新世といった、非人間中心的なアプローチと歩みを共にするものだろう。それは(広義の)デザインの視点から語られるが、デザインという言葉にアレルギーがある人でも引き込まれてしまう。

「人間は機能しない道具を持つ唯一の種であり、それが逆説的に知性の源になっている。」
ちなみにこの前の文章は
「古人類学者の中には、何かを成し遂げるということへの主な原動力は、単に人間特有の変容性、つまり異なる状況に際してさまざまな方法を考えようとすることへの強い要求なのだと論じるものもいる。この変容性は、デザイン能力として理解することができる。他の種の場合、何かを行う方法をひとつ考えだしたら、状況の変化によって強制的に方向転換を迫られるまでひたすらその方法を繰り返す。人間の場合は状況に変化がなくても、絶えず異なる方法をそれが機能不全になる段階まで想像しようとする。」
となっている。
書きながら今思ったけど、人間だけではなく他の動物というか、ある種のあらゆる生物がアクセスできるミーム的なものの中で、人間に特にアクセサビリティが良いものというだけな気もする。(あまり深く検証出来ていないけど)

あともう一つ引用。
「ヴァルター・ベンヤミンは有名な短文「ルイ・フィリップあるいは室内」の中で、19世紀の労働と家庭の分離について書いている。
「ルイ・フィリップの治世に、一般市民が歴史の舞台に上がる。(中略)一般市民にとって、生活空間が初めて仕事場に対立するようになる。生活空間は室内において形成されるが、オフィスは生活空間の引き立たせ役えまある。オフィスの中で現実を受け入れようとする一般市民は、室内には自分の幻想が維持されるよう望む。(中略)こうして室内の幻像(ファンタズマゴリー)が誕生する。一般市民にとって、私的環境は宇宙となる。その中な、遠く離れた土地や過去を蒐集する。生活を送るその部屋は、世界という劇場の桟敷橋なのだ。」」
これは最近ずっと考えている新しい家内産業のあり方に接続する感じがした。消費世界の行き着く先として、生活と消費ではなく、生活と生産の場が新しいかたちで一致していくのではないか。

最後に、前言を覆して申し訳ないけど、結局デザインに軸足がある本はタイトルとかが魅力的でも最終的に読みにくくなるなあ。結局、なんでか。

◾ゆっくり、いそげ(影山知明)
よくあるローカル/アンチ資本主義的な文脈で、(本書の前書きの言葉をそのまま借りると)スローな事業、生き方について語る本だと思っていたら、全くそこに留まる本ではなかった。感情/感覚論、あるいは結果論的な話、単なる理想論ではなく、ちゃんとシステム的な話と地に足のついた実践の話を、金融のバックグラウンドからなる経済システムへの理解をもって整理し、語ってくれる本だった。

不特定多数でも、特定少数でもなく、「特定多数」(多数というか少なくない数という感じだけど)という言葉の力強さに感じ入ったし、
「「大きなシステム」が形成されるその過程で、「特定の人にとっては大事だけど、普遍化しにくい」ような価値は取引の対象ではなくなり、その居場所をなくしていく。」というセンテンスの中にある小さなシステムを動かす価値の「直接的な」流通やあるいは生産に自分も関わりたいと思わされた。
「外との交換と、内との交換」という言葉で、お客様向けの理念が社員、スタッフには向けられない状況を語るのも、膝打ちものだったし、そもそも「take=利用する」と「give=贈る(支援する)、given=受け取る」という整理がわかりやすい。何より彼が実践しているわけで、理論が血肉の通ったあたたかな言葉で裏付けられている。

「CSRとは、「利用してきた者」による「利用されてきた者」への還元活動である」
CSRを言い訳にすることをどう考えていこうか。

◾仏教が好き!(河合隼雄×中沢新一)
対談本は箸休めに、と思って読んだら、全然箸休めにならなかった。知的興奮の嵐。やっぱり僕はこの二人が好きだなあ、と思わされた。

「中沢 世界を分類したり、秩序づけたりする思考が一方にはあり、もう一方には秩序を突き崩しながら流動していくものき身をまかせていく忘我のトランスがあり、その二つはどちらも人間の心に最初からセットしてあったもので、この二つの間に均衡をうひ出すことが文化の働きであったわけです。」

「中沢 帝国の内部に生きながら、そして帝国もそれを庇護するわけですが、帝国の原理を内側から解体させていく、いまふうに言うと、脱構築の原理がセットされた「宗教ではない宗教」「知恵としての非宗教」がつくられた。そういう宗教ならざる宗教をブッダはつくろうとしていたんではないでしょうか。(後略)」

「中沢 ええ、そのときには「一神教対多神教」とか「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教対仏教」というような図式を取ってはだめだと思います。本当に関係は複雑なんですから。
河合 そのような単純な対立図式で考えること自体が一神教的だとも言えますね。もっと微妙なニュアンスを押さえて考察することが、宗教を考える場合には必要です。」

「中沢 イスラム教とプロテスタントは、まったく違う思考のルートを通しててますが、視覚による喜びといものを否定してしまおうとする。
(かなり中略)
だからいまイスラムの原理的な人びとと、プロテスタントを核として発達したアメリカという国家がこういうかたちで激怒していることには、何かとても意味深長なものを感じるのです。
ある点で似たもの同士というのか。理想のかたち、ものの考え方が本当によく似ているところがあります。だけど、鏡の像のように、全部おたがいに反対を向いています。鏡の像のように全部が反対になる理由は、イスラムはアジアの宗教だから、プロテスタントはヨーロッパの宗教だからでしょう。
河合 まさにヨーロッパやねえ。キリスト教はもともとそうでもなかったけど。
中沢 だから二つは大変によく似ているところがある。歴史の皮肉ですね。まったく同じなのに、全部が反対を向いているというのが。愛と憎しみが発生くるいちばんの原型でしょう。愛も憎しみもここから生まれます。「この人を大好きだ、自分とそっくりだから」。「だけども大嫌いだ。全部自分と反対だからだ」。これがいまアメリカとイスラムこ間におこっている。別に異質だからといって文明が衝突しているわけじゃないです。」

「河合 ほかのキリスト教、イスラムには心理学なんて要らんわけです。そんな人間の心の学問なんてまったく要らない。神さんがぱっと言われて、その言われたことを自分がどう守るか守れないか。つまり、一神教の宗教は倫理がすごく大事だと言うんですよ。ところが、仏教のほうは心理が大事だと言うんです。」

「河合 僕の考えでは、個人主義というのはキリスト教から生まれてきたものです。神と人とを明確に区別する、「区別」の重視。それに唯一の自我を支える唯一こ神という構図です。その個人主義はやはり男性原理が圧倒的に優位でしょう。女性原理はどうしていいかわからない。そうすると、女の人たちもそれに乗ろうとすると、フェミニストじゃないですけど、「私たちも男と同じよ」ということしか言えない。ところが女性原理、母性原理というのは、僕はとっても面白いと思うし、大事でしょう。だからそれを持ちながらなおかつ個人であり得るというのはどうなっていくか。これは言い換えると、個人主義と仏教の折り合いをつけるということにもなりますが。」
これは半分?だけど、半分はなるほどと思う。

以上です。
なんか、今月は引用が多かった。
これは一過性のブームだろう。引用は書き写すのに時間がかかる。ただ、ある時代まで人々はこうやって書き写すこと(写経)こそ読書、学習だったんだよなあ、ということをぼんやり考えた。
あとは、最初にも書いたとおり隙間時間というか、子どもの相手をしながら少しずつ本を読んだから、まとまった思考よりも引用が相性良かったのかも。
あとめんどくさいからAmazonへのリンクを付けるのをやめた。

引用ついでにwebからもひとつ
日本映画というものは、存在しない(ゴダール インタビュー)
「私の理解している意味での映画についてですが、今日、国民国家は、欧州連合だとかグローバル化といった名の下に、より大きな実体のために消えてしまう傾向があります。かつて偉大な映画とは、国民もしくはその民族が自分自身の姿を見たいと思っている国々で現れました。イタリア、ドイツ、フランス、アメリカ、そしてロシア革命の時期のロシアなどがそうです。つまり、映画とは、国民が自分自身を見る一つの方法だったのです。それは多少なりとも、よいやり方でした。しかし、このやり方も少しずつ消えていってしまいました。」

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集