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テロメニア魔導記1(連載第六回)出発~宵闇にうごめくもの

掲載期間:7月13日~7月24日まで
次回更新:7月25日(木)予定
(次回から木曜更新に変更し、第一巻から順に毎週連載します)
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登場人物紹介

大陸地図

第三章 宵闇にうごめくもの

 2 出発

 今が朝なのか、それとも夜なのかは分からない。
 しかしそんな事は重要な問題では無かった。今日からカータは歩く練習を兼ねて、レートの塔を目指す事になっている。もちろん、マーヤも一緒だった。
 少年は前日、道さえ教えて貰えれば一人で行けると主張したが、マーヤは断固としてそれを受け入れなかった。カータにしてみれば、レートの塔は自分の旅の目的地であり、歩く練習も自分の為である事から、彼女の手をわずらわせる訳にはいかないという考えに至るのは至極当然のことだったが、それを口にした時のマーヤの怒りっぷりは並大抵のものでなく、少年は彼女の随伴を認めざるをえなかった。
 実際、カータの足取りはまだおぼつかない。食事など自分の身の回りの事は一人で出来るようになったものの、マーヤにしてみれば、まだ左脚を思い通りに動かせない彼に、遠路を一人で歩かせる訳にはいかなかったのである。カータが一人で行くと言い出して、その道を尋ねてきた時、彼女はレートの塔への道を絶対に教えようとはしなかった。
 マーヤが言うには、レートの塔は村から歩いて二日ほど進んだ場所にあるという。今のカータの歩く速度を加味すると、もう少し時間が掛かると見た方が良いだろう。
「これで全部揃ったかしら」
 台所からは、エーコが作る弁当の匂いが漂ってくる。マーヤは物置の中に籠もり、出発の準備を整えていた。
 ロープとくさび、天幕と毛布、ランタンと燃料の油、火口箱ほくちばこ焚木たきぎ二束、そして水筒と食糧に大小の刃物が一本ずつ。彼女はそれらの荷物を順番に点検していく。
 ロープと楔は天幕を張る時に使用するだけでなく、高低差の激しい場所を乗り越える際にも重要な役割を果たす。旅の必需品と言っても過言ではないだろう。
 天幕は以前、塔が倒壊して村全体を移動させた際、一時的に野宿する為に使用したものだ。もう何十年も使ってないが、今でも風雨を凌ぐ役割は十分果たしてくれるに違いない。
 常に暗い峡谷の村では、月光花が咲くこともあってか、明かりの為だけに貴重な油を消費する事は滅多に無い。しかし出先で月光花を絶やしてしまう可能性もある以上、遠出の際のランタンは必須だった。目が見えないマーヤは問題ないが、カータも同じという訳にもいかないのだ。
 そして火をおこすには火口箱ほくちばこが必要。更に焚木たきぎもあれば、その火を最大限に活用できる。峡谷の村では季節の移り変わりをあまり感じないが、最近明らかに寒くなりつつあり、焚き火があれば野営の際に凍え死ぬことも無い。食糧に火を通せば、より美味しく食べられるだけでなく、その安全性も増すだろう。また、多くの生物は火を怖がる習性があり、野営中、徘徊する野生動物から身を守ることも出来るのだ。まさに火は、安全な旅を保証する生命線だった。
 食糧は二人で五日分、十分な量を用意したが、これをたせるには暴飲暴食を避けなければならない。あくまで決められた量を少しずつ消費しなければ、五日分の食糧など三日で尽きてしまうのだ。小さなナイフとなたの大小一本ずつの刃物は、食糧を切り分けるのみでなく、ロープや薪など色々な物を切断するのに役立つ。一方、水筒の水は五日分も入らないので、どこか現地で水を調達する必要があった。
 マーヤは一通り荷物の点検を終えると、それを大袋に詰め込んでいく。そのとき一瞬、彼女の手が物置の奥にある小さな木箱に触れると、マーヤはハッとして作業の手を止めた。その箱の中には、彼の荷物が入っているのだ。
 目が見えなくとも分かる。その短剣は、特別な業物わざものに違いなかった。
 箱の中にはほかに、投擲用ナイフ四本とベルトに取り付けられた小道具一式、そしてフェドーラ帽も一緒に入っている。これらを雑芥として交換すれば、きっとかなりの値打ちになることだろう。しかしマーヤは到底、そんな事をする気にはなれなかった。
 この小さな箱の中の品々は、カータが村に落ちてきた際、身に付けていたものである。それは彼が何者なのかを知る手掛かりであり、最終的には彼に返すべき物だったが、ようやく歩き始めたばかりのカータにこれらの品を渡すのは、まだ少し早いようにマーヤには感じられた。
 何よりも、彼女はこれらの道具が、何故か物騒なもののように思えてならなかったのだ。
 カータが完全に回復した時、彼はこれらの品を持って旅立ってしまうかもしれない。カータは言っていた。カルディアナという名の人物を探さなければならないと。彼が居なくなってしまうかもしれない。そう思うとマーヤの胸は、強く締め付けられるように苦しくなってしまう。彼女はカータがこのまま、ここに住めば良いと考えていたのである。
「マーヤお姉ちゃん、弁当はカータに持たせておくからね」
 丁度その時、台所の方から老婆の声が聞こえてくる。不意をつかれた少女は一瞬ビクッとしたが、気を取り直してエーコに言葉を返した。
「はーい、ありがとうエーコ」
 彼女はその箱からフェドーラ帽だけ取り出すと、残りを全て物置の奥にしまい込む。そして準備した大袋を担ぎ上げてから、杖とコートをそれぞれ二組ずつ持って物置の外に飛び出した。
「あ、マーヤさん……」
 すると扉のすぐ外に居たカータと鉢合わせてしまう。少年はその丸い目を更に丸くさせ、マーヤとぶつからないように身をかわした。
「昨日はごめんね、一人で行くなんて言っちゃって……」
 カータは少女の顔を見るや否や、バツの悪そうな表情になって、悪いことをした子供のように頭を下げる。マーヤはそんな彼の声を聞くまで、自分が昨日激しく怒ったことをすっかり忘れていた。でもカータが突然一人でレートの塔に行くなどと言い出したのだから仕方がない。
「それなら大丈夫よ、カータ。はい、これ貸してあげる。あたしの杖だけど、歩く助けになると思うわ。それから……」
 少女はそう言って、二本の杖の内一本をカータに渡すと、さらに言葉を付け加える。
「これね、最近寒くなってきたし、あなたの為にコートを作ってみたの。ほら、あたしとお揃いなのよ。色は分からなかったから、ジーンとエーコに選んで貰ったの。あなたの帽子と合う色をね」
 マーヤは一着のコートとフェドーラ帽を少年に渡すと、得意げに微笑んでみせた。それは藍色のマントを兼ねた厚手のコートで、彼女の言う通り、黒のフェドーラ帽とよく合いそうだ。
「これ、マーヤさんが作ったの?」
 カータは思わず驚きの声を上げる。
「えぇ、そうよ」
 少女は少し不安と期待が入り混じった表情でカータの反応を窺っている。
「すごいや! ボク、このコートすごく気に入ったよ。ありがとう、マーヤさん!」
 少年は手を叩いて喜び、そしてマーヤを称賛した。カータの反応の良さに、少女は思わず顔を赤らめる。自分が苦労して作ったプレゼントを、彼は本当に喜んでくれたのだ。カータは早速コートに袖を通すと、黒い帽子を頭に載せる。その姿を見る事は出来ないものの、彼が喜んでいる様子を感じ取るだけで、マーヤは救われたような気がした。
「マーヤさんって、何でも出来るんだね!」
 カータは日頃から、彼女の高い能力に舌を巻いていた。それは料理や掃除といった家事だけに留まらず、看護に散髪、そして裁縫。彼女は何をやらせても、人並み以上の技量と器用さを発揮するのだ。実際、マーヤと一緒に過ごしていると、彼女が目が見えないことを、カータは時々忘れてしまう事がある。それはマーヤの高い能力の裏付けでもあった。
 マーヤは物置から出した大袋を一旦床に下ろすと、彼女の髪と同じ茜色のコートを羽織る。それはカータと色違いのもので、彼の藍色のコートと一緒に用意したものだ。マーヤがそのコートを羽織ると、どこからともなくエーコがくしを持って現れ、ところどころピンと跳ねている彼女の髪を丁寧に整え始める。
「どれ、ちゃんと髪をかして行かないとね。マーヤお姉ちゃんは女の子なんだから、荷物の準備よりもまず、身なりを整えることを考えないと」
 するとジーンは、そんな二人の後ろに回り込み、床に置かれた大袋をマーヤに背負わせ始めた。
「ほれ、大袋はまだカータには背負えんじゃろうから、マーヤお姉ちゃんが背負うんじゃろう?」
 二人の老人の心遣いに、少女は満面の笑みで応えてみせる。
「ありがとう、エーコ。ジーン」
 実はマーヤの能力の中で、カータが一番驚いたのは、何でも人並み以上にこなせる器用さではなく、その力強い腕力だった。マーヤは目が見えないにも関わらず、自分の体重より遥かに重たい荷物を、平気な顔して運んでしまうのだ。少なくともカータより力持ちなのは間違いない。マーヤは大袋を背負うと、左手に杖を持ち、もう片方の腕でカータの体を支えながら言った。
「カータ、お弁当持った?」
 少年は自分の身の安全の為にも、マーヤには絶対に逆らわないと心に誓う。
「うん、エーコさんから預かってるよ」
「それじゃあ、出発よ」
 そしてマーヤの歩調に合わせて、カータが玄関に向かおうとした時。
「ちょっとお待ち」
 老婆が後ろから少女を呼び止めた。
「どうしたの? エーコ」
 マーヤは首を傾げている。エーコは月光花を手に歩み寄ると、さっきいたばかりの少女の髪にそれを挿しながら小声でささやいた。
「カータのこと好きなんでしょ、頑張んなさいよ」
「ちょ、ちょっともう、エーコったら、なに言ってるの? 早く行くわよ、カータ」
 マーヤは顔を真っ赤にして老婆に反論すると、カータの体を引っ張りながら玄関扉を開け放った。
「気を付けて行って来るんじゃぞ」
「頑張ってね、マーヤお姉ちゃん」
 老人達は手を振って、少年少女を見送り始める。カータは左脇をマーヤに預けたまま、少し半身の体勢になると、後ろで手を振ってくれている二人の老人に頭を下げた。
「ジーンさん、エーコさん、ありがとう。行ってくるね」
 こうしてカータとマーヤは、峡谷の村から二日ほど離れた場所にあるという、レートの塔を目指して出発した。この道の行く末に、過酷な運命が待ち受けているとも知らずに。


 3 宵闇にうごめくもの

 家の中ではカータを引っ張っていたマーヤだが、一旦外に出ると逆にカータが足元を確認し、その安全な道筋を彼女に伝えながら進む共同作業が始まった。
 カータの左脚はまだ彼の意志で自由に動かせない。少女に支えて貰うことで、何とかその歩みを進められる状態だった。一方のマーヤは目が見えない。少年が彼女の目となり、足元の水たまりや障害物を避けることで、安全に進むことが出来るのだ。
 じめじめした湿気と深い闇の中で、ささやかな生活を営んでいる峡谷の村。
 この村を仕切る明確な境界線は無いものの、マーヤの言う道順通りに進んで行くと、やがて細い円筒状の塔が横たわった行き止まりに出くわした。
「あれ? どうしようマーヤさん。行き止まりだよ?」
 カータはそれを少女に伝える。
「それなら大丈夫、ここでいいのよ。少しの間、その壁に体を預けて待っててくれる?」
「うん」
 マーヤが自分の右肩を少年の左脇から抜くと、カータは杖に体重を掛け、ゆっくりと壁にもたれることでバランスを取った。すると少女は自分の杖を使って、円筒状の塔の壁を軽く叩き始める。そして反響する音に耳を澄ましながら、横たわる塔を壁沿いに進んでいくと、音が変化した場所でピタリと足を止めた。
「ほら、この辺に穴が空いてるでしょ?」
 それは穴というよりも、小さくひび割れた亀裂だった。
 この細い塔が倒れた際、ここで折れたのだろうか。亀裂の隙間から、本来なら硬い壁の中にあるはずの、鋼鉄の骨組みが剥き出しになっているのが見える。マーヤは自分の杖を背負い袋の隙間に挿し込むと、少年に手招きしながら言った。
「ここが村の出入り口よ。この先は野生動物や変な生き物が徘徊してるから、気を付けてね」
 それを聞いてカータは思わず聞き返す。
「野生動物はまだ分かるけど、変な生き物ってなに?」
「変な生き物は、変な生き物よ。人を襲う大きな羽虫とか、何でも食べちゃう大きな芋虫とか、縄張り意識の強い大きな鳥とか……」
 マーヤの言葉に少年の顔が青ざめる。
「なにそれ? 変な生き物って言うより、大きな生き物ばっかりじゃないか」
「ううん、大きいってだけじゃないのよ? 中には、羽根が生えたカエルとか、石の車輪で動く生きた牛車も居るって聞いたわ。だから、変な生き物なの」
「出来れば、その変な生き物には出会いたくないな……」
 カータは体を震わせながら言った。そんな怯えた少年の様子を感じ取って、マーヤは心配そうに問い掛ける。
「大丈夫? やっぱりレートの塔に行くの、やめとく? 今なら引き返せるわよ?」
 しかしカータは首を横に振った。
「大丈夫。それでもボクは、レートの塔に行きたいんだ」
 それを聞いてマーヤは、再び彼の体を支えると、ひび割れた亀裂の隙間から露出した骨組みを掴んで口を開く。
「分かったわ。それじゃ行くわよ。あたしにしっかり掴まってね」
 そして彼女は力強く少年の体を引き上げると、骨組みをハシゴ代わりにして登り始めた。どんどん視点が高くなるにつれ、カータは少し怖く感じたが、マーヤが骨組みのハシゴを登り切ると、横たわった円筒状の塔を足場にして立つことが出来た。
 暗い峡谷に倒れた一本の細い塔。
 杖を突いてその上に立ったカータは、再びマーヤに体を支えられながら歩き始める。横たわった塔は、ハシゴから橋にその役割を変え、やがて少しずつ傾斜を伴った上り坂に差し掛かった。マーヤいわく、歩く練習を兼ねてレートの塔に行くとの事だったが、普通に考えるとこれは、ややハードな練習ではないかとカータは思う。しかし彼女の体力からすれば、これが普通なのかもしれない、と少年は思い直した。
「なんだか、どんどん上って行くんだね。この道で合ってるの?」
「大丈夫、間違いないわ。これがレートの塔に続く道よ」
 道というものは普通、地面にあるものだとカータは考えていたが、しかしこの峡谷では違うらしい。二人が足場にしている細い塔は、やがて別の大きな塔にのめり込む形で接続し、その足場を螺旋状に連なる外階段の踊り場に移した。
「どうカータ? 疲れたなら、そろそろこの辺で休憩にするわよ?」
 上り坂が続いたせいか、少年が息を切らしている様子を感じ取ってマーヤが問い掛ける。カータは自分の体力が思った以上に落ちている事に驚くと同時に、マーヤの底無しの体力にも驚かされていた。
「マーヤさんは凄いね」
「え?」
「だって、ボクの体を支えながら歩いているのに、全然疲れてなさそうなんだもん。でも大丈夫。もう少し頑張ってみるよ」
 少年に凄いと言われたマーヤは、はにかんだ表情を見せながら聞き返す。
「そう? ここからは階段を上るから、ちょっと大変かもよ?」
「うん、分かったよ。もうダメだと思ったら、その時には休憩したいって言うね」
 そして二人は更に上を目指して足を踏み出した。今度は塔の外壁に沿って伸びる螺旋階段を、一歩ずつ上っていくルートだ。この塔は直径が太いらしく、螺旋を一周する間にかなりの高さまで上ることが出来た。少年はふと途中で上を見上げてみたが、どこまでも闇に覆われていて、その先にあると思われる空までは見通せない。すぐ隣に同じような塔が乱立しているせいか、相当な高さまで上ったにもかかわらず、未だ地上と同じ圧迫感があり、周囲の暗さが晴れることは無かった。この時ふとカータは異変を感じ、やや息を切らせながら、すぐ隣で自分を支えてくれている少女に問い掛ける。
「ねぇ、マーヤさん。なんだかこの塔、少しずつ傾いてきてない?」
 そう、彼等が今足を付けているこの塔は、上に上れば上る程、徐々に斜めに傾いていたのだ。そのせいで傾いた塔の上側は安全に歩行できる一方、下側に差し掛かると一気に転落してしまいそうな危険性があった。おまけにこの階段は足の裏に貼り付くような粘着性があり、ところどころつるのような植物も絡まって、非常に歩き難いのである。
「カータは怖がりね、それなら大丈夫よ。もう少し行けば、隣の塔との接続地点だから」
 マーヤの言う通り、いつの間にか隣の塔がかなり近くまで迫っていた。塔が傾いている影響で、徐々に隣接する塔との距離が近くなり、手を伸ばせば届きそうな位置関係になっていたのだ。この峡谷はその暗さから、非常に見通しが悪く視界が狭い。月光花をかざしてみても、ある程度近くまで接近しないと、周囲の状況の変化に気付きにくいのである。
「ほら、あそこから隣の塔に移れるわよ」
 右腕でカータを支えつつ、左手の杖で床面を突いて歩いていた少女は、音の変化で隣の塔との接続地点を発見したのだろうか。傾きの下側の方向を指さしてカータに言った。しかしそこは暗がりで、少年には何も見通せない。
「何も見えないよ、マーヤさん?」
「しっかり掴まっててね、カータ」
 マーヤが更に暗がりの中に踏み込んでいくと、彼女の髪に挿された月光花が、意外な風景を照らし出した。
「うわぁ、これはすごいや」
 カータは思わず感嘆の声を上げる。
 そこにはつるのような、または枯れ木のような、或いは木の根のような植物が絡まって、隣の塔への架け橋が出来ていたのだ。陽が差さないせいか葉は付いていないが、絡まった植物が天然の橋になっている様は、暗闇の中にあっても驚きの光景だった。
「さぁ、こっちよカータ」
 きっとマーヤは目が見えない分、怖さも感じないのだろう。平気な顔して揺れる植物の橋をどんどん渡っていく。真っ暗で下があまりよく見えないとは言え、張り詰めた冷たい空気と流れる風、そしてその風切り音はまさに高所のそれで、カータが少し恐怖を感じ始めた丁度その時だった。
「マーヤさん、待って!」
 急に緊迫した声を上げた少年に驚いて、マーヤがその歩みを止める。
「どうしたの? ん……ん」
「しーっ」
 カータは右手で少女の口をふさいで、強制的に彼女の言葉をさえぎった。その様子に只事でないと悟ったマーヤは、静かに少年にうなずいてみせる。彼女もきっと気付いたのだろう、何者かが少しずつ近付いてくる気配に。
 そして次の瞬間、カータはおぞましい生き物をそこに目撃する。
 ほとんど音もなく正面から接近してきたその生物は、なんと巨大な蜘蛛くもだったのだ!
 深い体毛に覆われた八本の長い足は、連動的かつ不気味な動きを見せながら、獲物を仕留めるべく静かに近付いてくる。少年はその頭部に付いた複数の眼と、自分の目が合ったような気がした。
 反射的に杖を持った右手を腰に動かそうとしたカータだったが、しかしまだ素早く右腕を動かせないばかりか、いつもなら腰に挿してあるはずの短剣も今は無い。巨大な蜘蛛は少年の動きを察知すると、急に鋭い動きを見せて一気に間合いを詰めてきた。
「危ない!」
「え?」
 素早い動きで急接近してきた大蜘蛛は、頭部の巨大な顎をマーヤに向けて襲ってくる。少年は右手に持った杖を前に突き出して、その恐ろしい牙が彼女の体に刺さるのを何とか回避した。
「引き返そう、マーヤさん!」
「う、うん」
 少女はカータの言葉を聞いて素早くきびすを返そうとしが、植物の橋が足に貼り付いて上手く動けない。さっきの階段で感じた粘着性は、この巨大な蜘蛛が周辺一帯に張り巡らせていた糸の影響だったのだ。
 カータも自分の足がつるから離れない感覚を覚えていた。左脚だけでなく、右脚も自由に動かせない状況に陥ったカータは、蜘蛛の次の攻撃が目の前に迫りつつあるのを察知した。
「くっ」
 カータはあまり力の入らない右腕で杖を振り回し、巨大な蜘蛛がこれ以上近付いてこないように追い払う。その時、突然体が浮き上がったような感覚に襲われた少年は、自分がマーヤに担ぎ上げられた事に気が付いた。
「逃げるわよ、カータ」
「うん!」
 この少女の底知れない膂力りょりょくは、もはや力持ちと言うよりも、怪力と言った方が的確かもしれない。マーヤは大きな袋を背負ったまま、右肩の上にカータを担ぎ上げると、杖で橋を叩きながら来た道を引き返し始めたのだ。それは糸の粘着性に捕らわれた足を、二人分から一人分に減らした方が動き易いという彼女の判断によるものだったが、実際にこれを実行できる者はそう多くないだろう。
 腹部をマーヤの右肩に宛てがわれた状態で担ぎ上げられたカータは、図らずも彼女の後方から迫ってくる巨大蜘蛛を、視界に捉え易い体勢になっていた。少年はこの状況を利用して、蜘蛛が襲い掛かってくるタイミングに合わせて杖を振り回す。すると杖の先端に蜘蛛の牙が勢いよくぶつかり、後ろから強く押し出されるような格好でマーヤは塔の螺旋階段まで一気に戻った。
 しかし蜘蛛はまだ追ってくる。
「マーヤさん、上に逃げよう!」
「分かったわ」
 少女はカータの言葉にうなずいて、傾いた塔の螺旋階段を上り始める。すると足元の粘着性が、少しずつ和らいでいくのをマーヤは感じ取った。おそらくさっきの天然の架け橋が、いつの間にか蜘蛛の棲家になっていたのだろう。だとすれば別の道を探さなければならない。しかしマーヤは、レートの塔に続く別のルートを知らなかった。
 よほど腹をかせていたのか、傾いた螺旋階段を上り続けるマーヤを、巨大蜘蛛はどこまでも追い掛けてくる。少女の呼吸が少しずつ苦しそうになってきたのを感じ取ったカータは、いつまでも自分が彼女に担ぎ上げられたままの状態を、少し気まずく感じ始めていた。
「マーヤさん、下ろして。ボク、自分で歩けるよ」
「それなら大丈夫よ。あなたの脚はまだ万全じゃない。この方が速いわ」
「……ご、ごめん」
 少女の言葉を聞いてカータの表情は曇る。自分は完全に彼女の足手まといになっているのだ。少年がそう思った時、マーヤは意外な言葉を口にした。
「それにね、あなたにはやって欲しいことがあるの。あなたにしか出来ないことよ」
「な、なんだろう?」
「この体勢なら、あたしの背負い袋から荷物を取り出せるでしょ?」
「う、うん」
 カータはそれを聞いて背負い袋の口紐を解き、その中に自分の杖をねじ込んだ。袋の中には食糧やロープ、ランタンなど様々な道具が詰め込まれているのが見える。
「そこにある道具を使って、何とかならないかしら」
「分かった。やってみるよ」
 カータはマーヤに担ぎ上げられた体勢のまま、彼女の背負い袋から細めの焚木たきぎを数本取り出した。そしてそれを程よい太さに束ねてロープで縛ると、その先端にランタンの油を染み込ませる。
「きゃっ」
 その時突然、マーヤがバランスを崩すようによろめいた。
「大丈夫? マーヤさん!」
 一瞬、巨大蜘蛛の攻撃を受けたのかと思ったカータだったが、見ると足元にある植物のつるつまづいただけのようだ。
「だ、大丈夫よ。やっぱりカータが、足元を見てくれてないと、ダメね、あたし」
「そんな事ないよ、マーヤさんは凄いって」
 カータは直感的に急がなければならないと感じていた。彼女の髪に挿した月光花は、後ろから迫りくる大蜘蛛との距離が、少しずつ詰まっていることを教えてくれている。何よりも、マーヤの息が苦しそうだったのだ。
 カータは火口箱ほくちばこを取り出すと、少女の背中で火をおこし始める。高所特有の冷たい風に煽られながら、それでも種火が消えてしまわないよう上手く火を熾すと、カータはそれを束ねた焚木たきぎに移して簡易的な松明たいまつを作り上げた。
 それと同時に、月光花の仄かな光源しかなかった周辺が、一気に明るく照らし出される。植物のつるに包まれた螺旋階段と、その表面に薄っすら張り巡らされた白い糸。そして背後から迫ってくる巨大な蜘蛛の姿が鮮明にカータの目に映ったが、しかし目が見えないマーヤは、そんな明るさの変化を知る由もなかった。

 カータはタイミングを見計らって松明たいまつを放り投げる。
 すると次の瞬間、松明の火はまたたく間に燃え広がり、植物に覆われた螺旋階段は炎に包まれた。立ち上る炎の壁を前にして、巨大な蜘蛛は完全に立ち往生している。マーヤは明るさを感じないものの、その熱気と煙を感じ取って口を開いた。
「火ね? 火をおこしたのね?」
「うん。これでもう蜘蛛は追って来れないみたいだけど、このままじゃ、ここも危ないかもしれない。どこか、隣の塔に移らなきゃ」
「そうね。それに、とても煙たくて息苦しいわ」
 マーヤは一時ひとときの安全を得たことに安堵して、担ぎ上げていた少年を下ろすと、彼の体を支えながら更に階段を上っていく。煙はどこまでも上に追い掛けてくるが、下に戻る訳にもいかないのだ。彼女は乱れた息を整えながら、カータと共にもっと上を目指してひたすら階段を上り続けた。すると煙が風に流されて、少しずつ呼吸も楽になっていく。
 カータは階段を上りながら周囲を見回して、どこか飛び移れる場所が無いか探していた。この塔は上れば上るほど傾きが大きくなっているので、上に行くにも限界がある。幸い、下の方が燃えているお陰で、この塔の周辺は今かなり明るかった。ここからさっきの場所を覗いてみると、植物で出来た天然の架け橋の上に、巨大な蜘蛛の巣がハッキリと浮かび上がっているのが見える。カータはその架け橋とは別の方向に、小さな光が集まっている場所を発見した。
「マーヤさん、こっちに見える隣の塔、跳び移れそうだよ」
 少し距離はあるものの、その塔の少し下の階層には広いバルコニーがあり、そこに着地できそうに見えたのだ。火の明かりがなければ気付くのが難しいそのバルコニーには、小さな細かい光が集まっていた。きっと何かがあるに違いない。
「でも、どうやって跳び移るの? 今のカータの脚では無理だわ」
「大丈夫。まずこのロープをマーヤさんの体に縛って、ロープの反対側をこっちの塔の丈夫そうなつるに縛るんだ。こうすれば、もしマーヤさんが向こうの塔に跳び移れなかったとしても転落しないし、その時はボクが引き上げてあげるよ」
 カータの言葉を聞いた途端、マーヤは呆れた顔をして少年を咎め始めた。
「まぁ、カータったら酷いわ。あたしに実験台になれって言うのね?」
「ううん、そんなつもりは全然ないよ、最後まで聞いて」
 少女の予期せぬ反応に、カータは慌てて彼女をなだめながら説明を続ける。
「今のはあくまで、失敗した時の話ね。うまくマーヤさんが向こうの塔に跳び移れたら、マーヤさんの体に縛ったロープを向こうの塔のどこか丈夫そうなところに縛って欲しいんだ。そうすれば、この塔から向こうの塔までロープが張られるでしょ? 跳べないボクでも、そのロープを手で伝って行けば、向こうの塔に渡れるようになるんだよ」
「すごいわカータ。あなたって、頭がいいのね!」
 最後まで説明を聞いた少女は、感心してカータを称賛する。さっきまでの反応とは正反対の手のひら返しだが、少年はあまり気にしないことにした。そしてマーヤの背負い袋からロープとなたを取り出すと、一通り準備を整えてから彼女に告げる。
「マーヤさんは目が見えないから、ボクが跳ぶタイミングを口で伝えるよ。階段の上から思いっ切り助走をつけて、ボクが合図したら跳ぶんだよ、いいね?」
 マーヤは正直、かなり怖かった。しかし今はこれを実行する以外に選択肢が無い。彼女は自分の杖を背負い袋の中に挿し込んで意を決すると、カータに指示されたスタート地点から思いっ切り助走を開始した。秋の冷たい風音が、少女に独特の恐怖心を植え付ける。カータからの合図はまだ聞こえてこない。マーヤは少年の合図を、聞き逃してしまったのではないかと思い始めた、その時。
「今だ!」
 カータの声が自分の耳に触れた瞬間、マーヤは思いっ切り前にジャンプした。
 するとその直後、体がどんどん下に引っ張られていくような感覚に襲われる。自分はうまく跳び移れなかったのだろうか、そう思った時、彼女の足は硬い床に触れる感触をマーヤに伝えてきた。
「やったよ、マーヤさん!」
 後ろからカータの嬉しそうな声が聞こえてくる。その時ようやく少女は、自分がうまく隣の塔に跳び移れたことを実感した。
「待っててね、カータ。今ロープをこっちの塔に結ぶわ」
 そう言ってマーヤは、背負い袋に挿された二本の杖のうち一本を抜き取ると、それを叩きながら周囲の様子を確認する。どうやらこのバルコニーは、石造りの手摺てすりに囲まれているようだ。少女は早速その手摺りにロープを固く括り付けると、一本のロープが二つの塔を結ぶような形になった。
「いいわよ、カータ。早く来て!」
 マーヤの合図を聞いたカータは、両手でロープを握って少しずつ彼女の居る塔に渡り始める。まだ右手の状態は万全ではないが、歩くのもままならない今の左脚で跳ぶよりは、よほど現実的な方法だった。
 しかしこの直後、少年は恐ろしいものを目撃する。
「え? この蜘蛛くも、どこから来たの!」
 なんと、一度はいたと思っていたあの巨大な蜘蛛が、再びカータの目の前に姿を現したのである。
「カータ、早く逃げて!」
 マーヤも少年の緊迫した声を聞いて、状況を把握したようだ。それは予期せぬ事態だった。マーヤはもちろん、カータでさえこの事態を予測していなかった。巨大な蜘蛛は、出来るだけ炎をけて、ここまでカータを追って来たのだ。円柱状の塔の外周、あまり火の手が回っていない対角線側の壁を伝って、少年を追い掛けて来たのである。
 腹をかせた巨大蜘蛛は、その鋭い牙でカータを突き刺そうとした。
 少年は両手でロープを握ったまま身をよじり、辛うじて蜘蛛の一撃をかわす。しかしロープにぶら下がって両手が塞がった今のカータに出来ることは少ない。彼は次の蜘蛛の攻撃を見た瞬間、左手でロープを掴んだまま、反射的に右手を自分の腰に滑り込ませた。そこにあるはずの短剣が無いと分かっていても、体に染み付いた動作は自然と、彼にその行動を取らせていたのである。
 カータはこの時、何故か一本のなたが自分の腰に収まっているのを確認する。そして咄嗟とっさにそれを引き抜いたカータは、蜘蛛の牙が自分の体を貫く前にロープを切断した。
 次の瞬間、塔と塔を結んだロープがプツリと切れる。
「あぁ、カータ、カータ!」
 少年の気配が下に落ちていったのを感じ取ったマーヤは、彼の名前を何度も何度も連呼した。
「大丈夫だよ、マーヤさん。そのロープ、引き上げてくれる?」
 その時、カータの声が下の方から聞こえてくる。
「あぁ、良かったカータ! 無事だったのね?」
 少女は思わず飛び跳ねながら、彼の無事を喜んだ。
 カータは一度、真っ逆さまに転落したかと思いきや、ロープに掴まった状態で宙吊りになっていたのだ。塔と塔を繋ぐロープは切断されたものの、マーヤが待つバルコニーの手摺てすりには、まだしっかりとロープが結ばれている。少年は咄嗟に自分の側のロープを切ることで、巨大な蜘蛛の追跡を辛うじて逃れたのである。
「いつものクセって、怖いよね」
 マーヤに引き上げて貰ったカータは、最初にそう呟いていた。
「だってボクは、マーヤさんの背負い袋に入ってたなたを返し忘れていたんだ。でも、そのお陰で助かったよ」
 カータはロープを準備する際に使ったなたを、そのまま自分の腰に収めていたのだ。それは戦いの場で長年短剣を武器として扱ってきた彼の癖だったが、その動作が偶然にも功を奏したのである。
「そうだったのね。それならカータ、その刃物はあなたが持ったままで良いわよ。きっとその方が役に立つはずだもの」
 マーヤはあまり気に留めた様子もなく、一本のなたをそのまま彼が使うことを提案する。
「ねぇ、マーヤさん。ボクが落ちた時の事、覚えてる?」
 カータは燃え盛る隣の塔の上層で、獲物を失って右往左往している蜘蛛を見つめながら少女に問い掛けた。
「それはもう、ビックリしたんだから。カータがまた、峡谷きょうこくに落ちちゃったらどうしようって」
「ううん、さっきの事じゃなくってね。初めてボクが峡谷の村に落ちて、マーヤさんに助けて貰った時のこと。ボクは気を失ってて、何も覚えてないんだけど、マーヤさんは覚えてないかなって」
 少年はマーヤが勘違いしていることに気付き、笑いながら質問を訂正する。
「もちろん覚えてるわよ。初めてあなたが落ちてきた時は、本当にドキドキしたわ」
 二人は塔の外壁に沿って造られた、少し広めのバルコニーの上に立っていた。そこには仄かな光を発する白い花が群生している。さっきの塔から見えた小さな光の集まりは、バルコニーに咲いた月光花だったのだ。
「えっと、その時ボク、何か身に付けてなかった? ほら、この帽子もボクがかぶってたものだと思うけど、他にも短剣とか、小道具とか、何か持ってなかったかな?」
 カータはさっきの動作で思い出していた。自分が一振りの短剣を、とても大切にしていたことを。ところが目を覚ました時には既に、全身に包帯が巻かれていて、その下は裸の状態だった。カータは自分が身に付けていた装備や衣服が、どこに行ったのかを知らないのだ。その中にはよく手に馴染んだ一振りの短剣も含まれていたのである。
「う~ん、それはよく覚えてないわね」
 マーヤはその短剣の事をよく知っていた。それは物置の奥に今も大切に仕舞ってある、あの短剣の事だろう。しかし彼女はその事を分かっていながら、思わず嘘をついてしまった。それは決して悪意からの嘘ではなく、カータの正体を知る事に対する怖さと、そしてカータとずっと峡谷きょうこくの村で暮らしたいという、彼女の願望から生まれた嘘だった。
「それよりもカータ、疲れたでしょう? 今日はもうこの辺で休みましょう。さすがにあたしも疲れたわ」
 マーヤは自分の嘘を誤魔化すように、別の話題を少年に持ち掛けた。なぜこんな嘘をついてしまったのかと、今になって思う。
「そうだね、分かったよ。ボク、天幕を張るね」
 カータは自分が峡谷きょうこくに落下した拍子に、幾つかの道具をどこかに落としてしまったのだろうと考えていた。レートの塔から帰ったら、まずそれを探さなければならない。その為にも今は歩く練習をこなして、左脚を自由に動かせるようにする。天幕の骨組みを組み立てながら、カータはその決意を固めていた。
 マーヤは少年の小さな決意を肌で感じて、自分の稚拙な嘘が見抜かれてしまったのではないかと心配する。月光花はそんな二人の姿を、仄かに照らし出していた。

次回、テロメニア魔導記1『陽が昇らない峡谷』
(連載第一回)プロローグ~三つ首の追跡者 から毎週連載します
7月25日(木)更新予定! お楽しみに!


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