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【小説】生理用品を買う男


 瀧野は生活雑貨を買い揃えるためにドラッグストアを訪れる。夜中でも煌々と明るい二十四時間営業だ。なんでも屋の如き品揃えで、日常消費する大抵の物は売っている。紙類や洗剤はもちろん、スリッパや衣類、毛布まである。食品に至っては、根幹の医薬品より幅を利かせている。驚くべきは、目立たない場所とはいえ、かつてバカチョンカメラと呼ばれた使い捨てカメラまで置いてあることだ。瀧野は電池を探している際にそれを見つけ、誰が買うんだよと思わず呟いた。
 彼は時折、生理用ナプキンを買う。レジで対応した店員は気にしてなどいないが、妻か恋人に頼まれてのことと通常は考える。しかし、それは本人が使うものだ。

 三十五歳の瀧野は、妻も恋人もいない。自由気ままな生活だ。寂しいとか悲しいなどと思わず、いわゆる婚活といった動きもない。周囲にお節介を焼かれると、彼は有り難いこととして好意的に捉えるが、結局その気がないので上手く行かない。


 二月後半のある朝、瀧野の務める会社で、社員の一人が鍵の開け方を誤り、警備会社の防犯ベルを鳴らしてしまう騒動があった。犯人を威嚇する音声も流れ、数分で警備会社のいかつい猛者たちが駆けつける。正しい対処方法は、警備会社に即電話して、身元を名乗り、冷静に事情を説明することだが、やらかしてしまったその男は、なんと一目散に逃げ出した。初めての経験の上まだ若いせいか、パニックになってしまった。結果、大騒ぎになり、警察まで出動してきた。
 しばらくして、逃亡犯は上司に電話をかけ、恐る恐る自供した。現場は笑いに包まれ、一件落着と相成った。

 その日の昼休みは、逃亡犯が主役になった。誰一人失敗を咎めず、良い雰囲気だった。瀧野も笑い話に加わっていたが、途中でちょっとと同僚の森崎に呼び出され、男二人で話をすることになった。外は日差しが春めいていた。
「瀧野って今付き合ってる人いるの?」
「いないよ」
「ちょうど良かった。先日取引先のイベントに参加して、二次会まで行ったんだけど、そこで瀧野にピッタリの子を見つけたのよ」
「いつもの直感かい? あてにならんなあ」
「いやいや、それがさ、話を聞いたら学生時代に吹奏楽をやってたと言うのよ。で、酒は飲まないし、趣味は読書だと言うのよ」
「一応、俺と一緒だね」
「だろー」
 瀧野はひょうきんな顔をして、話半分に聞いていることを示した。
「去年入ったばかりの子みたいでさ、顔は弥生顔というか、地味なんだけど、性格も良さそうなんだ」
「新入社員? いくつよ?」
「二十三くらいじゃない」
 瀧野は大きなため息を付き、肩をすくめた。
「でもなー、瀧野は面食いだからなー。失礼になったらごめん」
「いや違う。俺に失礼なんじゃなくてな」
「写真撮らせてくれよ。送る約束してあるからさ」
 瀧野は躊躇ったが、森崎はいいからいいからと半ば強引に、スマートフォンで上半身を前から撮影した。

 瀧野が呆れた理由は言うまでもない。大学を出たばかりの、しかも立場の弱い取引先の若手社員に、一回り年上の男を紹介するべきではない。下手したらセクハラかパワハラか、紹介ハラスメントという新語すら生み出せそうだ。仮に芸能界であれば、それくらい年の差で交際することもあるが、なにせ紹介しようとしているのは、至って普通のおじさんだ。いや、鼻毛の出たおじさんだった。
 写真を撮影した後、トイレに行った瀧野は、鏡に写った顔を見て驚いた。鼻毛がにょきっと出ていたのだから。
 写真では判別し難いとはいえ、鼻毛の出たおじさんを紹介された子は何を思うだろう。
 瀧野は鼻毛を処理しながら、顔も知らないその子を不憫に思った。と同時に、笑いがこみ上げてきた。自嘲的ではあるが、これはネタになると思った。
 彼は週に一回、友人の運営するサイトにコラムを寄稿している。


 翌日、森崎は得意げな顔で、再び瀧野を呼び出した。やや強い風は、花信風と言えば聞こえは良いが、花粉症には辛い黄ばみを帯びている。
「おっ、花粉症?」
「違うんだけどな、ちょっと目がおかしい」
「今年から始まったかもしれんぞ。でさ、瀧野を紹介する件だけど、念のため河野さんに断りを入れたら、いいんじゃないか、ということと、コラムって言うのか? 瀧野が書いてるやつあるだろ? あれを読んでもらったらいい、という話になって、感想文を書いてもらうことになったよ」
「感想文!? 地獄でしょ。馬鹿じゃないの」
「馬鹿なもんか。毎回あれ面白いよ。自信を持て」
「いや、そういうことじゃなくてな」
「俺はファンだよ。あの文章。お前さんに足りないのは自信さ」
 瀧野が笑いをこらえたのは、お前さんという言い回しに対してではない。森崎は励ますように彼の肩をたたいた。
「そうか。ありがとう。次のコラムは自信作になるから期待してくれ」
「おお、いいね。あの子にもそれを読んでもらおう」
 瀧野は不敵な笑みを浮かべ、力強く親指を立てた。

 次の原稿としては、別のものが出来上がっていた。しかし、翌朝の締め切りまでに差し替えようと、瀧野は就業後も会社に残り、一階のオフィスでパソコンに向かった。もちろん仕事ではないため、切りの良いところで帰り、自宅で仕上げるつもりだったが、彼の悪癖として、何かに集中し始めると、時間の感覚が抜け落ちる。キーボードを打つ手先だけが動き、同じ姿勢のまま止まってしまう。椅子に縛り付けられたように動かない。

 趣味の読書も同様で、寝転がっては集中できない。結果、座り胼胝という悩みを抱えている。出やすい体質に加え、やはり椅子に座っている時間が長いことと、座り方に問題があり、腿の付け根辺りの似たような箇所で発症と治癒を繰り返す。もちろん彼は色々工夫するが、気づくと柔らかいクッションは床に落ちていたり、度々立ち上がる意識など消えていたり、奇妙なほどのめり込んでしまう。
 患部が悪化すると、赤紫色に腫れ上がり、ひどい痛みとともに出血を伴う。まさにデリケートゾーンだ。彼は経験に基づく自己判断で、出血しそうになると生理用ナプキンを貼っておく。
 それが最適な止血方法だと学習したのは、母のアドバイスがきっかけだった。心身ともに男の彼は、当初抵抗があったが、試すうちにこれを発明した人は天才だと思うようになった。そして、いつの日かコラムで書こうとしていた。生理用品として売るのは男女差別だと。

 しかし、この夜、形にしていたのは、鼻毛の出たおじさんを紹介される乙女の悲劇だ。本人が読んだ時のことを想像して、にやっとしながら書いていた。とは言っても、書いたものを削っている時間の方が長い。思いつくままに書いた素材というか、荒々しいそれを、悩みながら削り、整え、短く纏める。もちろん素材が良くなければ、如何ともし難いが、どう削り上げるかの腕前こそが、書き手の力量だ。
 瀧野が漸く削り上げた時、蛍光灯の明かりはその頭上にしかなかった。彼は立ち上がり、他に誰もいないことを確認すると、凝り固まった体をぐーっと伸ばして、終わったー! と大きな声を出した。すると、二階で物音がして、間もなく下に降りてきたのは、今朝の逃亡犯だった。扉の開け方はこっそりと、まるで泥棒だった。
「あれー? 瀧野さん、まだいたんですね」
「そっちこそ。最近忙しいの? 今朝も早く来たみたいだし」
「そうなんですよー。来週から始まるキャンペーン企画の担当になっちゃいまして」
「おお、凄いじゃん。頑張ってね。今日はまだいるの?」
「はい。あと一時間くらいは上で作業します」
「じゃあ先に帰ると思うけど、戸締りは気を付けてね」
「了解です」

 二階へと続く階段は、裏口の玄関脇にある。最後に退出する際は、一階のオフィスと繋がる正面玄関を先に閉め、全室見回った上で裏口から退出する。通常の鍵に加え、警備システムをきちんとセットすることで、盤石の防犯になる。

 瀧野は原稿を電子送信した後もすぐに帰らず、書いて削り上げた満足感に珈琲を飲みながら浸っていた。集中している時とは異なり、お尻の痛みが気になり始めた。先日からまた出てきた座り胼胝が、帰宅するまでに出血するかもしれないと思った。念のために貼っておこうと、鞄の中をまさぐった時、二階に人がいることを思い出した。
 正面玄関を施錠すると、先ほど泥棒のように開けられた扉にも鍵をかけた。二十分ほど前に来たばかりだが、また何か用があって来るかもしれず、男同士とはいえ、お尻を突き出して生理用ナプキンを貼り付けている様を見せるわけにはいかない。瀧野は窓のブラインダーが降りていることも確認して、小さな電気スタンドをつけ、蛍光灯の明かりを落とした。
 そんな用心を重ねるうちに、パソコンの電子音が送った原稿に対する返信を知らせた。患部を椅子に当てないように座り、その内容を読み、原稿の修正点を考えていると、彼の予感を的中させる足音がした。鍵のかかった扉を開けようとする音がした。なんてタイミングの悪い奴だと呆れ、何も声をかけなかった。
 じっと座ってから数分後、彼は立ち上がり、下着とズボンを下ろして恥ずかしい体勢を取った。すると、天井から男の声がして―――
「ただちに犯行を中止しなさい。行動はすべて記録されています」
 次の瞬間、防犯ベルがけたたましく鳴った。天井に埋め込まれた黒い半円形の物体は、薄暗くてもはっきり映る警備会社の監視カメラだ。
「あの野郎ぉ~!」
 声が裏返り、瀧野は無様に憤ったが、オフィスの扉に鍵をかけた自分が悪い。もう帰ったと思われるのは当然だ。あの野郎は、防犯システムをきっちりセット、つまり施錠した上で、予定よりも早く切り上げていた。

 通常、防犯システムは室内で何かが動いていると施錠できない。しかし、瀧野は椅子に座って銅像のように固まっていた。警備会社のセンサーに、最初は人として認識されなかったということだ。
 さて、彼を紹介された乙女はどうだろう。せめて人として見た上で、優しくお断り頂きたいところだ。

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