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【小説】愛のスイートピー


 私はこの手紙を書くにあたり、あえてスイートピーの挿絵の入った便箋を選びました。薄紅色のスイートピーには、繊細という花言葉があり、これまでの人生を振り返ると、運命的な繋がりを感じました。

 あなたと別れてから九年が経ちます。この手紙が無事に届いたならば、今更何事かと、あなたは胸をざわつかせているでしょう。先にはっきり言っておくと、復縁を望むとか、過去のすべてを許すとか、そういった類のお話ではありません。
 私は今でもあなたが怖い。いえ、あなただけでなく、男の人が怖い。

 世間ではよく時間が解決すると言いますが、心に受けたあらゆる傷は、体のそれとは違うことを知りました。
 女医さんのいる歯医者で診てもらい、女の人に切ってもらえる美容院を選び、宅配業者さんにも可能な限り女の人とお願いしてあります。あなたはいないと分かっていても、ふいに大きな音を立てられると、びくりと全身が反応してしまいます。場合によっては、眼前に過去の光景がよみがえり、泣き出してしまうこと、震えが止まらなくなること、色々あります。
 再婚なんて考えられず、働くお仕事も限られ、母子二人、つつましく生活せざるを得ません。もう十八になる駿には、多くの我慢を強いてきました。

 ですが、この生きにくい世の中において、そんなことを口にすれば、母子手当が手厚いなどと、心無い言葉を浴びせかけられます。少しでも贅沢をすれば、それみたことかと叩かれます。弱い者いじめは、大人の方が陰湿です。

 私の人生が暗転したのは、親の反対を押し切り、半ば駆け落ちであなたと一緒になってからです。無理やり連れ去られたのならば、あなたのせいにできますが、間違いなく私自身で選んだ道です。
 あなたが私のイメージに合う曲と言った、赤いスイートピーをどこかで耳にすると、まだ幸せだった当時を思い出して、悲しくなります。
 男運という言葉がありますが、私の場合は運の悪さで片付けられません。酒癖の悪さと荒っぽい本性は、始めから気づいていました。それでも良いと、向こう見ずに惚れてしまいました。もう少し冷静に、あなたの悪いところが見えていたならば―――
 駿は生まれていません。ですから、あの時選んだ道に後悔はありません。自分の失敗を認めた上で、うずく心の傷を抱えながらも、駿に出会えた喜びが大きな救いになり、かけがえのない今を積み重ねています。

 二度と会わないと誓い、仙台に帰ったあなたが、もう現れることはありません。駿は小学生の頃からそれを理解して、あなたに関する話を一切しなくなりました。お父さんという言葉は、ぼんやりと禁句になりました。
 忘れられないのは、もう叩かれなくていいんだよ、と声をかけた時です。あの子は無表情でした。目の奥がからっぽに見えました。何を思っていたのか分かりませんが、私は少しぞっとして、ただ抱きしめることしかできませんでした。
 駿からすれば、たった一人のお父さんです。どんなに暴力を振るわれても、一緒に暮らしたかったのだろうか―――。そんなことを考えてしまう時もありました。


 親にとっての良い子は、必ずしも好ましい傾向ではありません。のびのびと振る舞えない環境が、言いたいことを言わせないようにしている場合があります。
 あなたという恐怖がなくなっても、駿は心配になるほど良い子でした。私を困らせるようなことを言ったりやったりせず、物も欲しがりませんでした。将来こうなりたい、これをしたいと、夢も語りませんでした。ですが、毎日のようにお友達と遊んだ話をしました。大抵その遊びは、野球です。僕はやりたくなかったんだけど、とよく言いました。上手いから誘われるそうです。あの子の入ったチームは必ず勝つそうです。私は似たような話を繰り返し聞いて、随分長いこと悩みました。
 本格的に野球をやるとなれば、相応のお金がかかります。あの子はそれを知っていたでしょう。ですが、純粋にやりたいと言えなかった理由は、勿論もう一つあるわけです。

 あなたが社会人野球の選手だった姿を、駿は映像と写真でしか知りません。この子が物心つくまでと、思い描いていたあなたの夢は、結局叶いませんでした。野球に無知な私が言うのも失礼ですが、もっと真面目に、悪い誘いを断り懸命に取り組んでいたら、結果は違っていたと思います。プロ野球に行けたかもしれません。聞いた話によれば、あなたの才能はそれくらいあったはずです。

 血は争えないと言いますか。駿も野球が大好きでした。それを言ったら私が悲しむ、或いは怒ると思っていたのでしょう。
 たしかに葛藤がありました。なぜ野球なのか。サッカーではいけないのか。
 野球のボールやバットを見ると、嫌でもあなたを思い出しました。ですが、ボールを投げつけられたり、バットを振り回されたりしたことは一度もありません。あなたは私より、いえ家族より、野球が大事でした。そして、野球より酒という愚かさでした。

 駿に野球を諦めさせるのは簡単でした。あれこれ親の協力が不可欠ですから。私は他の父兄に馴染む自信がありませんでした。あの大きな声を出される環境は耐え難いと思いました。
 そして、中学高校と続けるとすれば、やはりお金の問題が大きくなります。市立の強豪校に行きたいなどと言われたら、どうにもなりません。どこかで諦めさせるのなら、最初に無理だと言っておくべきだと思いましたが、サッカーやテニスであれば、駿の初めてとも言える我が儘を、可能な限り受け入れてあげようと努力したはずです。そのことに気づいた時、なぜだか無性に悔しくなり、溢れ出る涙に頬を濡らしながら、野球をやらせてあげようと決めました。

 どんな声掛けをしたのか覚えていません。ただ、駿が自発的にやりたいと言えるように、ちゃんと野球をやった方が良いとか、友達とやっているだけではもったいないとか、そういう言葉だったと思います。
 当初、あの子は戸惑いを見せました。背中を押されても尚、後ろを振り返るように私を気遣っていました。それを受けて伝えた言葉は、今もはっきり覚えています。
 やりたいことをやりなさい。
 すると、駿は急に泣き出して、お母さんありがとう、と言ってくれました。


 心配事は沢山ありましたが、親として共にやるしかないと腹をくくり、土日のどちらかは、お茶の買い出しや試合会場への送り迎えなどに取り組みました。やはりどうしても、活気あふれるグラウンドには近づけず、それ以外のことでチームに貢献しようとしました。すべては駿が嫌な思いをしない為です。
 軽自動車だから難しいなどと言わず、必要とあれば、他の子も乗せて運転しました。絶対に事故を起こしてはいけないと肩に力が入りました。車内で誰かが大きめの声で話し始めると、駿がやんわり注意してくれました。
 僕のお母さんは繊細だから。
 どこで繊細という難しい言葉を覚えて来たのか分かりません。駿は私を形容する時に必ずそう言って、静かにしてほしいと周りに伝えてくれました。

 練習や試合などの風景を、私は遠くからしか見たことがありません。もともと野球には興味がありませんから、駿が元気に楽しくやってくれれば、それで満足でした。いずれ甲子園だとか、プロ野球選手だとか、そんな野心はなく、むしろ平凡に、高校まで公立の学校に進んで、文武両道を心がけてほしいと思っていました。
 お母さんは野球が分からないからいい。
 私はその言葉を聞いた時、嫌な汗をかきました。以前あなたが、似たようなことを言っていたからです。生半可な知識で、ああだこうだ指摘されるくらいなら、よく分かっていない人の方が良いのでしょう。女だから馬鹿にされたなどと思ってはいません。観戦を拒絶されたわけでもないでしょう。見に来るなとは、あなたも言いませんでした。ただ、見に来てほしいと、誘われたこともありません。

 駿がそれを言わなかったのは、勿論私に負担をかけまいとしてのことですが、どうやら本当に見られたくない事情もあったようです。
 私はとっくに気づいていました。野球が上手いというあの子の嘘を。
 顔立ちはあなたに似ているのに、あなたに似て野球が大好きなのに、体つきと運動能力は、とろくさい私に似てしまったのです。幼い頃から走っても駄目、踊っても駄目なあの子が、野球だけ上手いとは考えられませんでした。

 それでも自分の可能性を信じて、より強いチームに入りたいと願うのなら、私はなんとかしてあげたい思いでした。中学から高いお金をかけて、硬式野球を習うこともできます。甲子園で活躍する子は、大抵そうだと聞きました。ですが、駿は優しさを帯びた強がりを言って、私に笑いかけました。
 本当に上手い人は、どこに行くかなんて関係ないよ。


 そして、高校に進学する際は、公立の普通高校から甲子園に行くという、壮大な夢を掲げました。それを笑う人がいるとすれば、駿の情熱を知らないからです。
 特別な事情がない限り毎朝休まず、五時半に起きて練習に向かいました。グローブやスパイクなどの手入れを怠らず、大事な宝物として扱っていました。怪我をしないように心掛け、スポーツに関する本を読み漁っていました。よく図書館に通っていたのはその為です。他の勉強も疎かにせず、成績は概ね中の上くらいでした。

 野球の成績はどうだったでしょうか。試合のあった日は、必ずその結果をぼんやり報告してくれましたが、毎回チーム全体のことばかりで、駿が具体的にどのような活躍をしたのか語られず、私は語られても分からないという姿勢を貫きました。
 毎朝、頑張ってね、と声をかけて送り出すのですが、試合に出向く朝は、別の何か、勝てるといいね、などに変えました。勝っても負けても、試合の後のユニフォームは奇麗なままでした。その代わりに、声がすかすかに枯れている時がありました。
 悔しさを胸に秘め、チームの為に、そして仲間の為に、どれほど声を張り上げたのでしょう。
 不貞腐れた姿を見せず、生き生きと野球に取り組んできた駿は、誰よりも素敵だと思います。恥ずかしいなどと、少しも思うことはありません。

 人生はプロセスですから。結果は皆同じ。死ぬだけです。どう歩いてきたか、どう歩いていくかのかが大事になります。途中の小さな結果に惑わされてはいけません。選手になれなくても、甲子園に行けなくても、それを一途に目指して努力したプロセスこそが素晴らしく―――

 ですから、結果に関わらず、最後まで精いっぱいやらせてあげたかった。高校三年間やり切ったと、最後の夏に燃え尽きてほしかった。
 まさかのウイルスによって、大会中止が正式に決まった五月の夜、駿は初めて私の前で、悔しい、と言って泣き崩れました。

 私はなんとか実施できたはずだと思い、中止を決めたお偉いさんたちの、ことなかれ主義を恨みました。学校の先生は、君たちの命を守る為、と説明したそうです。先生という立場では、そのように言わざるを得なかったのでしょうが、命と天秤にかけるのは、卑怯に思われました。
 気丈に中止を受け入れようとしていた駿は、テレビを一切見なくなりました。報道される情報に心をかき乱されたくなかったのでしょう。狭い家の中ですから、私もしばらくテレビをつけなくなりました。

 そんなある日、駿は活気を取り戻した顔をして、私にこう言いました。
 七月の終わりに引退試合をするから、お母さんに見に来てほしい。
 私は躊躇いなく頷きました。命に替えても見に行こうと思いました。初めて誘われた野球の試合です。あの子が初めて見に来てほしいと、最後の最後で言ったのです。正式な試合ではありません。チーム内で二つに分かれて行うのです。それでも私は、あの子が応援だけで終わったとしても、その勇姿を見届けようと思いました。


 燦々と晴れた試合当日、開始予定の午前十時前に学校のグラウンドを訪れました。木陰に他の父兄も十人くらいいました。ユニフォーム姿の選手たち以外は皆、もちろん私もマスクをつけていました。暑さが厳しく、息苦しさを感じながらも、そうせざるを得ませんでした。
 目ざとく私を見つけた駿が、マネージャーの女の子と一緒に駆け寄ってきて、さあこっちへ、と案内してくれました。そこはグラウンドから少し離れた小高い場所で、駿が戻った後も、女の子が私の為に残ってくれました。
 ボールが飛んできても、私が守るから大丈夫ですよ。
 そう力強く言われて、私は驚いてしまいました。すると、頼りなさそうですか?、と冗談っぽく訊かれましたから、もちろん否定しました。
 繊細なお母様だと聞いています。私は先輩に大変お世話になりましたので、今日は一緒に観戦させてください。
 腕も足もよく日に焼けたその子は、二年生とのことでした。駿とは恋仲なのかと、野暮な詮索をせず、共に最後の試合を見守りました。三年生十四人は、二つに別れたどちらかに、全員始めから出場しているようでした。取り越し苦労を内心喜び、駿の一挙手一投足を目に焼きつけようとしました。

 軽快に足を運び、確実にボールを捕り、素早く投げる―――
 運動音痴だった頃の面影はありませんでした。ひたむきに努力して、ここまで上手くなったのだと、瞬きすら惜しまれる光景が時折涙でにじみました。
 詳しい人が見たら、まだ下手くそなのでしょう。とても甲子園なんて行けるレベルではないのでしょう。
 それでも親の私にとって、あの子の目覚ましい成長は、スーパープレーの連続に見えました。実際、エラーと呼ばれる失敗は、一つもありませんでした。

 試合前に拡声器で、声援を控えるように、と案内がありましたが、それは形式的なものになっていました。先生は選手たちが発する大声を黙認していたのです。
 そして、気づいたのは、駿がバットを手にして打つ時に、仲間の声援が大きくなることです。皆に好かれていると伝わってきました。私の隣では静かに、手を合わせて祈ってくれました。

 ですが、打つ方では思うようになりませんでした。四度回ってきたいずれの機会でも、打ったボールは力なく飛んで、あっさり捕られてしまったのです。駿は全力疾走を怠らず、走りきった後に天を仰ぎました。

 試合は僅差のまま進み、最終回になると、駿のいる方が二点負けていました。私の願いは、勝たせてあげたいではなく、もう一度打たせてあげたいでした。
 どうかもう一度、あの子にチャンスを―――
 女の子と共に手を合わせました。二人が塁に出れば、駿に回ってくる展開でした。
 幸先よく一人が塁に出た後、続く二人が上手く行かず、崖っぷちに追い込まれましたが、その後の子が鮮やかに打ち返し、塁に出ると、走ってきた方にいる駿を指差しました。
 お前に回したぞ。
 そんな言葉が聞こえてくるようで、私の胸は熱くなりました。素振りをする駿は、いつも通りを心がけているように見えました。

 九回裏ツーアウト一三塁です。駿がバットを高く掲げ、さあ来いと構えた時、ピッチャーは泣いているようでした。そして、キャッチャーからのサインに、二度三度、首を横に振りました。どうしても投げたいボールがあるようでした。
 きっと彼は、渾身のまっすぐを投げる。
 私でも変化球ではないと察しがつきました。迎え打つ方は、察しがつけば打ちやすいはずです。
 駿に打たせようとしたのか。投げる本人のこだわりだったのか。いずれにしても、投げたボールはやはりまっすぐでした。
 次の瞬間、乾いた金属音と共にボールが空高く飛びました。歓声が沸き起こり、私は思わず手を叩きました。ですが、懸命に追いかける選手が左腕を伸ばして―――
 まさに紙一重、ボールはグローブの中に収まりました。すると、駿は走る足を止め、恭しくヘルメットを取りました。悔しがらず、素晴らしいプレーに敬意を示したのです。

 見る者すべてが拍手を送り、選手全員がグラウンドの中央に集まりました。もはや勝ち負けなど関係ありません。笑顔と涙の感動的な光景でした。三年生一人ひとりが胴上げされ、引退試合は幕を閉じました。


 この試合は駿にとって、正真正銘の引退試合でした。今後遊びで野球をすることはあっても、もう真剣に上を目指して取り組むことはないのです。

 二年生の時から、卒業後はどこか一般の企業に就職すると決めていたようです。私にはもっともらしいことを言いました。
 進学したところで、先の読めない時代だよ。

 出願先を絞り込む過程で、私は駿の思いやりに気づきました。地元の企業しか選択肢になかったのです。
 最優先事項は地元、なにがなんでも地元であると、三者懇談でも先生に言いました。なぜかと訊かなかったのは、先生だけではありません。私も黙っていました。駿にすがりつくような情けない思いがありました。やりたいことを探さないあの子に、やりたいことをやりなさいと、もう一度言えませんでした。
 それで良いのでしょうか? 
 駄目に決まっています。寂しいなどという理由で、愛する我が子の将来を狭めてはいけません。とても大学には行かせてあげられないのだから、せめて地元にとらわれず、自由に就職先を探してほしいと願うのが、親のあるべき姿です。
 なにせ背中を押されても振り返る子です。少しでも私が引き止めるような態度を示せば、駿は私にとっての良い子を卒業できません。

 親を振り切りあなたと結婚した私とは違うのです。
 四年前、和解できないまま父はこの世を去りました。途端に老いてしまった母は、私の介護を必要としています。

 親不孝を謝り、それを行動に示す為には、まず私自身が自立しなければなりません。
 自らの足できちんと立ち、可能な限り母を支え、我が子を快く送り出すこと―――
 私は自立の誓いを立てようと、お盆の墓参りに駿を連れて行きました。父の前で、やりたいことをやるように、言い渡しました。
 地元でなくて、いいんだよ。

 駿は頭の良い子です。私の覚悟を汲み取り、必死に考え、湧き出てくる好奇心と向き合ったようです。その結果を、私は二日後の夜に伝えられました。
 愛知の会社に行ってみたい気持ちがある。
 相変わらず、私を気遣う物言いでした。いいじゃない、と私は歓迎しました。不思議と演技ではなく、素直に打ち明けてくれた喜びが負の感情に勝りました。
 すると、駿は私の目をまっすぐに見て、こう言いました。
 お母さんも、やりたいことをやって。
 うん、勿論だよ。
 咄嗟にそう答えることができたのは、きっと私の成長です。


 そして今、いよいよ巣立ちの春を迎えました。秋口にすんなり就職が決まってから、一日一日を大切に過ごしてきたつもりですが、あっという間の半年でした。石の上にも三年だよ、と忍耐を説いたのは、私自身の未練を断ち切る為だったのかもしれません。
 三月二十八日、駿は愛知に引っ越します。

 先日、私は冗談で、最後にお母さんと一緒に寝ようか、と言いました。へらつく私とは対照的に、駿は真剣な顔をして―――
 最後に一つだけ、甘えてもいい?
 我が儘を聞いてほしいと言いました。一つだけ願いを叶えてほしいと言いました。そして、私に見せたのは、駿の宝物の、原点と呼べる物です。
 まだ持っていたんだね。
 ずっと鞄の奥に隠していたのでしょう。それは初めて買ってもらった小さなグローブでした。

 覚えていますか? 七歳の誕生日に、あなたがプレゼントした物です。

 私はあの子が何を言わんとしているか察しました。
 引退試合の後、見に来ていた父兄とキャッチボールをしている三年生がいました。微笑ましい光景でしたが、思い返すと、お父さんとのキャッチボールという原点をもって、野球生活に終止符を打つ意味合いがあったのでしょう。
 
 人生の節目に、あの子もそれを望んでいます。最後の夏があまりにも悔しかった分だけ、その思いは強いのかもしれません。

 正直、私はあなたに会わせたくない。二度と駿には関わってほしくない。

 ですが、自立した一個人の、駿の思いを尊重して、どうかもう一度会ってほしいとお願いする為に、私はこの手紙を書きました。挿絵のスイートピーの花言葉には、門出があります。

 そして、三月二十日の誕生花でもあり―――
 叶うことならば、原点からちょうど十一年後のその日に、咲かせてあげたいです。

 読んだらすぐ、お返事をください。期待しています。あなたに少しでも残る、親心を。

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