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【小説】青が走る


 最近の天気予報は、臆病な傾向にある。曇りか雨か怪しい時は雨と言い、雨か雪か怪しい時は雪と言う。要するに、批判を出来る限り回避していると思われるが、小狡いことにテレビの場合は、その女々しい発言を大抵育ちの良さそうな、言い換えれば気の弱そうな、若い女性に言わせている。言わずもがな、彼女たちは容姿端麗である。私のようなおじさんは、ころっと許してしまうと見透かされているわけだ。
 故に今回も、どうせ雨だろうと考えていた。仮に予報通り夜半から雪が降っても、ちらつく程度で朝積もっていることはないはずだった。それがどうだろう。何だこの白さは。憎たらしいほど美しい。まるで雪国ではないか!

 昨今の社会情勢を鑑みて、市内しか走らなくなった私の車は、うっかりノーマルタイヤのままである。車社会に生きる者として、半ば足を奪われた格好である。滅多に雪の降らない地方都市ならでは悲劇と言おうか。
 仕方なく、電車を使って出勤することにした。何年ぶりになるだろう。こういう日に限り、テレワークにならない仕事が入っていた。窓を開けてみると、ため息も雪に変わりそうな寒さである。がっつり着込み、そして長靴を履いた。
 慣れない足取りで進むうちに、折り畳み傘にさらさら降りかかる雪は止んだ。駅まで凡そ三十分を要した。通常は二十分足らずであり、危うく乗るべき電車に遅れるところだった。

 乗った車両に空いている席はなかった。制服の上に各々防寒具を着た高校生が多く、ふいに懐かしさを覚えた。電車通学の思い出である。あの頃と違うのは、皆一様にマスクを付け、押し黙っている点である。悪ふざけする者は見られない。真面目と言うべきか。牙を抜かれていると言うべきか。
 いずれにせよ、ただただ可哀想である。中には、例えば友達付き合いの苦手な子は、こっそり喜んでいるのかもしれないが、病気でもないのに病人のように振る舞い、自由に馬鹿なことを言ったりやったり出来ない彼らを思うと、やはり老婆心ながら泣けてくる。

 古今東西の不自由の象徴とは、病人と罪人である。そして今、大袈裟に言えば、顔全体を晒す者は罪人扱いされる。そんな時代において、最も注意しなければならないのは、知らず識らず何者かに支配、或いは管理されることへの慣れである。
 故に私は、お洒落なマスクを着用する。決して病人ではないという意志であり、ささやかな反抗とも言えるが、良いですね、などとマスクを褒められれば、その思いをきちんと伝えている。押し付けではない。意外に納得してもらえる。言うなれば、冴えないおじさんによる、お洒落マスクのすゝめである。

 乗車から三駅目で空いた席に腰を掛けると、心持ち体を左に傾けた。右隣は楚々とした女子高生である。白いマフラーを巻き、短い黒髪は清潔な丸みを帯びている。ショートボブと言うのだろうか。顔立ちは目元しか分からない上、横目で一瞥したに過ぎないが、おじさんならではの勘により、相当の美人さんだと思われた。
 すると、目の前に座る中性的な男子高生が、彼女にちらちら視線を送っていることに気付いた。私であれば嫌らしいが、彼の場合は事情が異なる。目を合わせる勇気はないようで、話をしたこともないのだろう。着ている制服から察するに、二人は同じ学校の生徒ではない。一目惚れだろうか。口元が隠れているのに。
 青春とは、実に不可解である。理屈を超えた健康的な輝きがある。私は目を細めた。自身の甘酸っぱい青春を回想しながら―――


 中学時代は最悪だった。私の知る限り皆がそう言うから、恐らく中学校という組織に問題がある。
 多くの生徒にとって、心と体が最も変化する時期に当たっている為、先生はその扱いに長けたプロでなければならないが、なにやら威圧的に振舞うとか、将来の不安を煽って勉強させるとか、大抵そういう程度の低い教育になっていた。

 ところが、高校時代は最高だった。自主自立を育むという、おおらかな校風だったこともあり、先生たちとの関係も良好だった。理不尽な束縛は体育の授業の中でしか受けなくなった。
 そうなると、友人関係こそがすべてというか、外れてはいけない感覚が強くなった。まだ若い為に視野が狭く、嫌われても良いと割り切れなかった。

 今思うと、中学時代は憎き敵の、即ち先生の悪口を言い合うなどして、共通の被害者意識が仲間意識になっていた面もある。

 結局のところ、高校時代の最高は、新たな敵とも言える仲間外れを生み出すことで成立していた。誰が首謀者ともなく、暗黙の了解で馴染まない者を阻害していく構図は、社会人になっても散見される。実に恥ずべきことである。私はそれを理解していながら、いじめる側に回った。
 暴力は奮っていない。悪口も直接言っていない。それでも無視したり、見下すように振る舞ったりした。本心ではなかったと、言い訳するつもりはない。私は実に嫌な奴だった。

 一方で、仲間たちとの楽しかった日々には良い面も沢山あった。財布を落とした者がいれば、放課後のファミレスで仲間たちが奢り、飼っている猫を探している者がいれば、仲間たちも三日三晩共に探し回り、他校の生徒に因縁をつけられた者がいれば、舐められてなるものかと仲間たちも拳を握った。
 他校に乗り込んで行った際の無鉄砲さは、まさに青春である。体育館のドアを勢いよく開け、「田中はいるかー!」と練習中のバスケ部に向かって叫んだ。不良の田中はサボりでいなかったようだが、「ビビって逃げやがったな」と結論づけ、母校に華々しく凱旋する気分で引き上げた。
 あの時、田中という人物を知る者は一人だけだった。後に、彼が百九十を超える大男だと皆が知り・・・、二度と乗り込んでいくことはなかった。

 くだらない話で笑い合い、悩み事も相談する仲になっていたが、私は高校二年生の頃、一つ隠し事をしていた。
 それは電車通学を突然始めた理由である。「毎日自転車はダルい」といい加減な説明をしたが、実は気になる子を電車の中で見つけたからである。別の学校の生徒だった。自転車のタイヤがパンクして、電車を使わざるを得なかった時に、一目惚れとも言える衝撃があった。翌日も、翌々日も、同じ時間、同じ車両に、その子がいた。
 一重瞼のいわゆる狐顔であり、当世風ではなかったが、顔全体が凛と調和して、体つきも均整が取れていた。大抵ドア付近に立ち、物憂げな表情で窓の外を眺めていた。気安く声を掛け難い雰囲気が、彼女の魅力を高めている気がした。

 パンクが直った後は、電車と自転車を使い分けるようになった。自転車がないと放課後の動きに不便であり、毎日電車には出来なかった。二駅分とはいえ、無駄にお金もかかった。
 それでも彼女に、気のあることを悟られないようにしながら、私は何か幸運を待った。話し掛けるきっかけというか、僅か数メートルの距離にある見えない壁をぶち破る事件というか、事故でさえ良いと思っていた。例えば電車が引っ繰り返る。彼女を助けようなどとは、実に青臭い発想である。

 最も恐れていたのは、恋人と思しき者が現れることだったが、私より前の駅で乗車する彼女は、いつも一人だった。降車する駅は私より二つ先であり、数少ない女子高の生徒であると、着ている制服から知り得ていた。
 恋人はいそうにない。いや絶対にいないと、私は盲目に信じた。

 そんな日々が半年ほど続いた冬のある日、仲間の一人が個性的に可愛い子を見つけたと言い出した。
「昨日駅に用があったから電車で帰ったんだけど、そこの女子高に通う子でさ、すんごい個性的なの。目は一重なんだけど、きりっとした美しさがあって、ただ可愛いとは違うんだ。他とは違う、なんか人を寄せ付けないオーラもあったね」
 それを聞いた上で、私は幾つか外見の特徴を訊いた。胸がざわつき、恐らくあの子のことを言っていると分かった。
「そうだ。皆で同じ時間に今日も乗ってみようぜ」
 私は水を差せなかった。これが何かのきっかけになるかもしれないなどと、良い方に考えた。
 その日は空振りに終わったが・・・

「あの子あの子」
 翌日の放課後もわらわら電車に乗り込むと、密やかな声で仲間がそう言った。やはり、と思った。いつものドア付近に立つ彼女は、朝と異なり日の暮れた外を眺めていなかった。車内に向けられた視線は、一瞬こちらを睨むように見た。何か噂話をしていると察したに違いなかった。私は仲間と共に乗り込んだことを悔やみ、顔を伏せた。
「おいおい、あれって吉村の妹だろ」
 私はその小さな声にぎょっとした。「え!?」と声を上げる者もいた。
 吉村とは、私たちが阻害する同級生の一人だった。気の弱さに反して顔立ちが良く、そういえば似ていると気付いた。彼もまた、一重瞼の狐顔だった。

 翌日からしばらく電車通学を控えた後、次に吉村の妹さんを車内で見かけたのは、まだ寒さの残る春先だった。
「ゆきちゃん」
 彼女は珍しく友人と思しき子と話をして、そう呼ばれていた。ついに名前を知り得た喜びは、私の耳をそばだてたが・・・
「いじめって最低だよね。私はそういうことをする人が一番嫌い」
 その言葉は、恐らく私に聞こえるように言っていた。初めて聞いた彼女の声は、鋭く、冷たく、そして美しかった。
 私は吉村をいじめている仲間の一人だと思われたのだろう。仲間の誰を、彼女が知っていたかは、どうでも良い。私もいじめていたのは、紛れもない事実である。
 こうして、私の電車通学は終わりを迎えた。


 ―――遠い日の記憶を辿りながら、目の前に座る男子高生と自分を重ね合わせた。彼も電車通学の必要はないのかもしれない。別世界のような雪景色の中、この電車は青春を乗せている。空は次第に明るくなってきた。
 次の駅に着き、私の右隣りに座る女子高生が立ち上がると、その席の端には花柄のポーチが置き忘れられていた。さっと手に取り、白いマフラーの後ろ姿に声を掛けようとした時、あ・・・と気付いた。彼はいじめなどしていない男だと直感的に思った。かつての私と同じ罪人ならば、このような幸運は訪れないのだから。
 きっかけを託された彼は、小さく頭を下げ、思いを寄せる人に向かって駆け出した。

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