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【小説】妻と花束

 身重の妻が、大きな花束を手に帰宅した。退職祝いとして贈られたはずのそれは、白、黄、赤、オレンジ、暖色系の花々である。
「おかえり。七年間お疲れ様」
「ありがとう」
 涙ぐんで微笑む顔に、僕も幸せな気持ちになった。マタニティ用のふわりとしたスーツ姿も、ひとまず見納めである。
 名残惜しそうに着替えた後、少し落ち着いてから、今日あったことを詳しく話してくれた。入社時の思い出を織り交ぜながら。僕は気の利いたことを言わず、そうか、良かったね、などと、短く相槌を打つばかりだったが、職場でも愛されてきた妻の人柄をしみじみと感じた。
 彼女は誰にでも別け隔てなく優しい。僕が心配になるほどに。人の美しさとは、内面のそれを指すのである。
  
 休日の翌朝、僕は良くないことを口にした。テーブルの上に飾られた花々をぼんやりと見て、三千円くらいだろうかと。妻は頂き物に対する値踏みをひどく嫌う。台所から鋭い視線を感じた。
「その花はね、百万円出しても買えないものなの」
「うん、ごめん。それは分かってる。だけどさ・・・」
「一万円ぐらいするわよ」
「一万円!?たっかいな。花ってそんなにするのか」
 ぽつりとため息を零した妻は、我が家の定番を二人分運んできた。トーストにハムエッグ、そしてコーヒーである。
 僕は遠い日を思い返した。たった一度だけ、自分で花を買ったことがあると。もう二十年近く前だろうか。小学六年生の時、黄色い薔薇を買った。父の日である。
 休日らしくゆっくり食べながら、その話をすると、妻は意外そうな顔をした。子供の頃とはいえ、僕が父に贈り物をしたのだから。
「お義父さん、喜んだでしょう」
「いや、喜ばないよ」
 僕は二人兄弟の父子家庭で育ち、妻は一人っ子の母子家庭で育った。対照的なのは、親との関係性である。妻が時折切々と説く、若干宗教じみた親の恩について、頭では理解しているが、心が頑なに受け入れようとしない。自分が親になろうとしている今に至っても。
「しばらく行ってないでしょう。お義父さんのところ。この子が産まれたらますます行けなくなってしまう」
 別にいいよ、とは言えなかった。
「そうだね。来週あたり行ってみるか」
 妻は嬉しそうに笑ってくれた。凡そ一年ぶりの帰郷である。

 秋晴れの当日は、買ったばかりの車で発った。後部座席には、すでにチャイルドシートが設置してある。妻を助手席に乗せ、車内には胎教に良いとされる音楽を流した。話題の中心は、これから始まる子育てについて。聞き役になっている際に、別のことを考えてしまうのは、僕の悪癖である。
「ねえ、聞いてるの?」
「うん、聞いてるよ。そういえばさ・・・」
 妻は呆れた顔をして、何よ?と目で訊いた。
「おやじに贈った薔薇の花束、たしか百五十円だったんだよね」
「どういうこと?」
「百五十円か・・・まあ、それくらいしか持ってなくてさ。薔薇をこれで買えますか?って訊いたんだ。何本欲しいとは言わなかったが、店の中にポスターが貼ってあってね。父の日の広告というか、女の子が黄色い薔薇の花束を差し出す写真だった。きっと僕は、それをじろじろ見ていたんだろうね。だから同じような花束を用意してくれた」
「そのお花屋さん、場所分かる?」
「んー・・・なんとなく」
「今日はそこでお花を買いましょう」
 小さな個人店だったから、もうなくなっているかもしれないと思った。店主は白髪交じりの男性で、とても優しそうに見えない仏頂面だった。きっと僕は、彼の細い目に実際よりも幼く映り、微笑ましい少年としてイメージされたのだろう。まるで僅かな小遣いを握りしめて来たかのように。
「当時好きだった子と映画を観に行った帰り、今日は父の日だよって言われたんだ。その子は君と同じ母子家庭だったな。母の日にカーネーションを贈ったと言うから、僕も当然贈ると見栄を張ったんだ。そうした手前、きっと子供ながらに、残金百五十円は恥ずかしいと思ったんだろうね。花屋には一人で入った」
「女の子と入らなくて良かったわね」
「まあ、そういうこと」
 あの夕暮れに訪れた時のまま、どうか店が残っていてほしいと思った。

 出発から凡そ二時間で故郷の町に着くと、妻にぽつぽつ説明しながら記憶を辿った。初恋のほろ苦さが蘇ってきた。帰郷の際に通る道は、ほぼ決まっていて、そうでない場所の記憶は、頼りなくぼんやりしている。
 ああ、懐かしい。あれ?何かが変わった。
 運転席からの景色に、当時の面影と時代の流れを感じた。目星をつけた辺りは、悪目立ちする看板の、全国至るところで見るチェーン店の数々に、激しく浸食されていた。歩道の人通りは少ない。車社会の町である。
「カーナビだと、あっちにお花屋さんがあるみたいね」
 そこが外れであれば、どうやら諦めた方が良さそうだったが・・・
 片側一車線の十字路を右折して、左手に見えてきた古めかしい店構えは、記憶に纏う霧を払いのけ、あの夕暮れのそれとぴったり重なった。昼下がりで少し見栄えがするのか、重ねた歳月を感じられなかった。
「ここだよ、ここ!」
 思わず叫んで、隣接する猫の額ほどの駐車場に入った。小奇麗に花が並ぶ店先では、エプロン姿の女性が生き生きと立ち働いていた。
「いらっしゃいませ」
 感じの良い笑顔である。目がぱっちりしている。かつての店主と似ても似つかず、一抹の不安を覚えた。軽く会釈をして、花の香りにゆっくり立ち入った。他に客はいなかった。
「わあ、奇麗」
 妻がそう声を上げた時、店の奥にもう一人いると分かった。たしか前回も同じ場所に座っていた。気難しそうな顔も変わっていなかったが、体は一回り小さくなり、髪はすっかり白くなり、僕の方をじっと見ていた。話しかけようとした途端、目をそらされた。次のきっかけを窺った。妻と花を選びながら。
「どうかしら?」
「いいね」
 店員の女性が整えたそれは、黄色を基調とした一つの作品である。妻が先日貰ってきたものと比べれば、随分小さい。選ぶと言っても、僕は肯定するだけの役割だが、なぜか素敵なご主人だと褒められた。
「お会計はあちらです」
 示された奥で、白髪の男性が立ち上がり、年代物のレジを打った。その手は途中で止まった。僕の顔をちらりと見て。
「元気か?」
「え?・・・はい。あの、僕は小さい頃、このお店に来たことがありまして」
「赤いシャツのな。覚えとるよ」
 まさかと思った。あの日着ていたか分からないが、赤いチェックのシャツは僕のお気に入りだった。
「父の日に、この店で黄色い薔薇を買おうとした僕は、たった百五十円しか持っていませんでした。それなのに用意してくださったのは、ここに貼ってあったポスターと同じ、豪華な花束でした。子供だった僕は、百五十円で買えるものだと思い・・・恥ずかしながら、その記憶は最近まで薄れていて、漸くお礼に、二十年も経ってから来ました。お許しください。本当にありがとうございました」
 そして、五千円札を出したのは、失礼にならない程度を考えてのことである。お釣りはいらないと伝えた。
「いや、金は貰っておる。あの後、次の日だったな、君のおやじさんがわざわざ来てな。俺はあれぞ、もちろん受け取らんと言ったがね、こんなに嬉しいことはない、払わせてくれ、と言うもんだから、きちんと不足分を貰ったよ。感動したね。子が親を思い、親が子を思う。俺も息子がいるもんだから、思わず涙が出たよ。俺の息子は君と違って悪たれだったが、いい嫁さんもらってね。ほれ、その子だ。君もどうやら・・・いい嫁さんだね。嬉しいよ。今日はいい日だ。俺がこんなに喋る日はめったにない。会いに来てくれてありがとう。釣りはきちんと受け取ってくれ」
 僕は頭を下げたまま、しばらく俯いた。父の顔を思い浮かべて。
 なんだこれは?高かっただろうと、言われた気がする。百五十円だよと、投げやりに答えた気がする。そうだとしても、なぜこの店だと分かったのだろうか・・・
 顔を上げると、妻が目を潤ませていた。手にしている花束のラッピングには、店の名前がアルファベットで印字されていた。きっと父に贈った時も。
 
 久しぶりに来た父の眠る墓は、雑草一つない。手入れが行き届いていた。兄が頻繁に来ていると知らされた。澄み切った青空の下、妻と供える花は、あの日と同じ黄色が目立った。菊である。
 僕は数分間手を合わせ、今年自分も親になることを報告した。

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