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【随筆】文学における自由

短編小説に限らず、小説というものは、いうまでもなく、何を、どのように書いてもいい自由な文学形式なのだ。意外に思われる読者もおられようが、実は小説というのは最も新しい文芸ジャンルなのである。小説以前から存在した詩や戯曲などの形式による拘束、それは即ち韻律だの三一致の法則(人物、場所、時間の一致。登場人物の数がある範囲内で一定であること。場所が一定であること。ある一定時間内に出来ごとが起り、終ること)だのといったものであるが、そうした形式上の束縛を嫌い、より自由に書こうとして生まれた文学形式こそが小説だった筈なのである。
(筒井康隆著『短篇小説講義 増補版』岩波新書より)
日本人の芸道好きの性向が、小説を芸道化しているという事実である。さらに小説を芸道化するにあたって、長編小説よりは短編小説の方が「お稽古」に適していたということもいえる。なぜなら短編小説は、俳句だの短歌だの詩だの戯曲だのといった、小説以前から存在する比較的短い文学形式の作法をそのまま応用することができるから教えるのに楽であり、ばらばらに分解して、「起承転結」だの「伏線」だの「対応」だの「象徴」だのを拾い出して見せることが簡単にできた。
(筒井康隆著『短篇小説講義 増補版』岩波新書より)

 本稿は、私の学生時代の回想、経験談である。読書感想文、小論文に対しネガティブな表現がみられるが、あくまで私個人の感想であり、それらを否定する意図はない点をお含みおき願いたい。また、四半世紀前の話から述べるため、現在の読書感想文の評価方法とは異なる点も多くあるだろう。


 私は子どもの頃より、課題としての読書感想文が苦手である。なぜなら、「好き勝手」に書けないからである。その頃の私は「自由」と「放恣(ほうし:勝手きままで節度がないこと)」の違いすらわかっていなかったのだから、そう思うのも仕方ない。
 学校の先生や親は、本を読んで感じたことを素直に書けばよい、という。しかし、本当に「素直」に書いては、花丸ではなく、がんばりましたねのハンコ程度の評である。学校の賞など、「認められる」作品を書く者は決まって同じ顔ぶれである。例えば、生徒会長、副会長候補の優等生である。
 優秀作を読んでみれば、誠にキレイな展開である。どうやってひねり出したのか、本にある主人公の体験を、自分の「僅かな」人生経験とうまく照らし合わせて、大人たちの納得しそうな教訓で締めくくってある。これが彼らの実直な「感想」なのだろうか。未熟な私はそう疑い、内心、気に入らないとさえ思ったのである(今となってみれば、そうなれない私、上手に書けない自分自身に対する慰め、負け犬の遠吠えなのであるが…)。
 その頃より、課題の度に、私は学校の課題図書をすべて無視し、自分の好きな本について、どの一文が格好いいのか、独善的に述べる読書感想文を提出し続けた。子どもなりの最大限の抵抗、革命家気取りである。武勇伝をつくりたい青春男子のささやかな暴走である。
 それでも、特に問題児扱いもされず、国語の評定も5段階中の3である。試験の点数が悪ければ、2である。「課題図書ではないかな?」と母性愛を込めて赤ペンを入れられるだけである。私はまだ子どもといえども、文章を書く者として、周囲の無関心は大いに不満であった。

 大学受験ともなると、小論文を書く必要があった。推薦入試は気楽なもので、センター試験(共通一次試験)を受けることなく、小論と面接で合否が決まる。男らしくない卑怯な選択と思っていたが、花粉症の呪いのもと、センターでの高得点は難しいだろうと戦略的撤退を決行したのである(実際は学力不足と怠慢である)。
 小論文はより見本となる型を求められるジャンルであり、過去の模範解答を数年分受け取り、勉強してゆく。感情をいかに排除するか、説得力をもたせる型を知っているか知らないか、引用部をいかに気の利いたものにするか、結論に普遍性の高い学びや教訓を書けるか。つまり、感性よりも技術、智慧よりも知識を必要とする印象である。
 感情を排除した定形の文章は、公の発言つまり時代の指導者(天皇や総理大臣など)やビジネスにおいて要請されるのであり、その人の知性や人格をみるには全く適当ではないだろう。ただし、型通りにできる「真面目」な人かどうかは判定できるかもしれない。
 
 さて、年の瀬の迫る推薦入試の受験日、私も「大人」になったのか、「自由」を捨て、お約束通りに書いた。合格だった。
 大学では、レポートと呼ばれる課題がある。これもまた点数化しなければならないから、お約束の多い書き物である。教授の書いた本を要約する程度のものから、ひとつのテーマについて意見を述べさせるものなど多岐に渡る。なかには面白い教授もいて、完全に自由、何でもいいから書いて良いという奇跡もある。それは都市開発の社会学系のセミナー(研究室で主催する少人数の講座)であったが、私はナショナルジオグラフィックの月刊誌からミツバチの特集を引用し、人ではなく昆虫の世界、ミツバチの社会がいかに優れているかについて書いた。雑誌内の昆虫写真のコピーを数枚添えて。
 セミナーのメンバーは失笑ぎみの雰囲気であったが、その教授は面白いと太鼓判をおしてくれたのである。

 大学はある程度自由があり面白い。私は工学部なのに、卒論は純然たる農業である。書くのは私だからテーマも私が決める。卒業のために卒論を書くのではない。時間という最も貴重な財産を消費して書くのだから、そのとき自分自身が最上級に興味のあることに挑むべきである。評価しなければならない研究室の教授には甚だ迷惑な話であったのだが。
 引用先がいかに信頼できる組織のものであるか、主観がないかといった点ばかりを気にかけていては退屈である。当時は環境問題について騒がれた時世であり、工学研究より農業研究のほうが私にとっては重要だった。
 いわゆる論文の書き方に則っていない、子どもの自由研究の類いに映ったのだろう(私は子どもの自由研究は、どれも立派な研究成果であると確信している)。NPO法人の協力を得て、休耕地を再生、作物を収穫し、一回限りデータから日本の山間部でのバイオディーゼル燃料の活用について論じたのである。「統計的優位なデータはないのか」「趣味レベルの思いつきのような話」「君の研究はいったい何の役に立つのか」「そもそも新規性のある研究なのか」、プレ発表会で散々な目にあったが、そのまま突き進み、発表会当日欠席、担当教授が学校へ謝罪することになり、私は卒業式も欠席である。就職してしばらく経ってから卒業証書が実家へ郵送されてきた。もはや大卒かどうかはどうでもいいことであったが(就職先も農業法人であったから関知していなかった)、温情で卒業させてくれたらしい。その血の通った優しさについては心より感謝申し上げたい。また、私の自由奔放で感情的な進め方は不適切だったと反省している。己の信じる道を進むべきであるが、周囲への敬意なくしては、それは野蛮の道である。

 かくして、私は義務教育から大学高等教育まで、型通りに書くことを「訓練」してきたのである。しかし私は、必ずしも型通りの教育を否定しているわけではない。型を叩き込む教育が完全なる害悪とは限らないのからである。論理的思考能力はこの訓練により高められる。例えば、仕事において事実ベースの進捗報告をしなければならない時に、私の「感想」を述べていては何も進まず、組織・顧客に迷惑をかけてしまうだろう。その場に応じて、先人たちの培ってきた型通りに文章を書く技術は必要である。子どもの頃からの十二年間に渡る型通りの修行は、決して無駄ではないのである。

 また、型通りといえば、俳句はどうなのか。特に、俳句は型の文芸と呼ばれるように、暗黙の決まり事が多い。一句一季語、五七五音、切れ字、季語の本意、と文学のなかでは決まり事の多いジャンルである。しかし、だからといって面白くないわけではない。むしろ人生のすべてをかけても良いほどに面白い。また、決まり事を「破って」もいい世界である(それらは例えば、無季俳句、自由律俳句と呼ばれる)。

 私は文芸誌に拙句を毎月投稿するくらいの俳句好きである。学生時代に「決まり事」の多い課題に文句を言っていた私が、好き好んで型に嵌りながら楽しんでいるのである。初学の頃は、散文をただ五七五に切り取っただけの句であり、俳句の真の面白さに気づいていなかった。学習を進めていくうちに、飯田龍太氏の「かたつむり甲斐も信濃も雨のなか」の句と出会い、一気にのめり込んだ。俳句に型があるからこそ表現できる世界がある。「かたつむり」で切れ、「甲斐も信濃も雨のなか」と平明かつ調べの軽快さに反して、深い余韻がある。かたつむりの小さいものから、甲斐、信濃の壮大な山国へ飛躍し、その大地は静かに、雨に烟っている。立ち上がる景の多様性や通底する詩情は他の文学において表現し得ないだろう(散文としてつらつらと描写してもいいのだが、読者の数だけ鑑賞の生まれる絶妙な『余白』は、俳句でしか実現できないだろう)。型という暗黙の了解があるからこそ、表現できる世界なのである。また、季語の本意は「知識」かもしれないが、人類の感性と混ざりあう血の通った言葉の結晶である。

 以上、私は多くの失敗を繰り返し、貴重な気付きを得た。小学生から俳句愛好家になるまでの長い年月を経て、型に囚われない自由も、また型通りに実践することも大切である、と。

 分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火
 咳をしてもひとり 尾崎放哉
 戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡辺白泉
 梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太
 春暁の山ひとつづつひとつづつ 廣瀬直人
 霜柱俳句は切れ字響きけり 石田波郷

 緊張感のあるなかに、自由な世界を感じる。五十音の躍動といったら良いだろうか。戸惑う方もいるかもしれないが、いずれの句も、型を熟知したうえでの自由である。最後の石田波郷の句は有季定型、特に切れ字の概念を強く意識したものである。それなくして、自由律は自由となりえない。

俳句でありながら俳句を忘れさせる表現の自在さ。そして俳句ならではの定型の凝縮力。そんな一見矛盾した特徴を兼ね備えた作品に出会ったとき、俳句は凄いな、と私は脱帽するのである。これは非定型の勧めとは違う。五七五の凝縮力を生かすための自前の四苦八苦こそ俳句の醍醐味であり、読むよろこびだ(以下略)
(三枝昂之著『短歌と俳句―俳句らしさを考える』角川学芸出版より)


 どの世界においても、真の自由をもって楽しんでいければ、より魅力的になるのではないだろうか。型通りも型破りも、きっと面白い。そして、それを受け入れる広い土壌も必要だ。それらの協同が、新たな世界、未来を切り拓く力となれば尚良いはずである。

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