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【小説】電池を換える少女

 私たちと少し離れて一人暮らしする祖母は、身の回りのありとあらゆる電池を交換できません。嫁の母には言いづらいらしく、エアコンのリモコンが動かなくなったりすると、学校帰りに立ち寄る孫の私を待っています。だいたい週に一回のそれまで、じっと我慢しています。電話は使いこなせるのですが、めったに困ったと言ってくることはありません。電池の換え方を教えようとしても、どうやら壊してはいけないと思うらしく、千代ちゃんは頭がいいねえと褒めるばかりで、学習する気がみられません。きっとその様子に、間違いなく父はいらっとしますから、祖母が頼むのは私になります。電池を換えてあげるくらいの些細なことで、感謝されて褒められます。お駄賃までくれます。そうでなくても、もちろんお安いご用ですが、父はなぜいらっとするのでしょうか。母もなぜ色々気遣ってあげないのでしょうか。もう祖母は八十を過ぎていて、今更あれこれ学習するのは難しいのです。昔どこかで電化製品が爆発したなどの、極端な例を覚えている祖母は、誤操作で重大事故が起こるとも思っています。だからいつも使う簡単な操作を繰り返すのみです。理屈ではなく、怖いというものは仕方がありません。
 祖母は日中お風呂に入ります。夜は危険なのだそうです。倒れることを気にしていますから、私は必ず、おばあちゃんお風呂入った?と訊きます。そして、私がいる時に入ってもらいます。何かあったら呼んでねって伝えると、やはり安心するようです。きっと毎日入っていません。それでも臭くありませんから、週に二三回は入っているはずです。
 私はたまに休日も祖母の家に行きます。今週は行けなかったなって思い、特にすることがないと、そうします。時間があるので、祖母が通う怪しげな健康講座に付き添ったりします。凄くいいお話と聞いて、興味本位で行ってみたのが始まりです。そこはシャッター通りと化した商店街の一角、微弱な電気が流れる椅子をずらりと並べたお店です。ご婦人方ばかりを集めて、びしっとスーツを着たイケメンの男性が饒舌に語ります。立ち見がいるほどの人気です。受講料はおろか、お気持ちでそれを入れる箱のようなものもありません。講座を聞きながら高額な椅子を無料で体験できます。私にはただのリクライニングチェアとしか感じられないのですが、みんな生き返ったようになるなどと、その絶大な効果を口にします。実はほとんどサクラかもしれません。椅子の他にも次から次へと健康商品の紹介があります。現代人の体に何が足りないのか分かりやすく解説をしたあとで、それを補うにはズバリこれ、という流れです。話は本当に面白くて、巧みなお世辞まで言ってくれます。祖母は安いものしか買わないのですが、嫌な顔をされることもありません。かえって不気味というか、あまり長く通うべきではないと思います。ただより高いものはありませんから。祖母もそれは自覚していて、そろそろ止めておこうかねえと言うようになりました。
 しばらくすると、別の理由も重なって、私たちはもう行かなくなりました。この前恥をかいたから、と祖母が言ったのです。それが何か、私は心当たりあったので、この前っていつ?とか、それって何?などとは聞きませんでした。女性はいくつになっても女性と言いますが、祖母もそうなのだと思いました。そして、好きな人のことを語りたくなりました。ひそかに思いを寄せる私のヒーローです。

 クラスメイトの彼は、留年しているので一つ年上です。高校で留年は珍しく、二年生の中で彼一人です。どうやら去年、出席日数が足りなかったらしいのです。それが遊び回ってのことではないと、彼の外見から推測できます。何やら根暗な雰囲気で、いわゆる不良とは違うどころか、そういう人たちにイジメられていたような気がします。私たちのクラスでも、意地の悪い男子が松崎先輩と呼んで良くからかっています。へんてこな敬語を使って明らかに見下しています。私は何か用がある時、男子だからめったに話しませんが、松崎くんって呼びますし、敬語も使いません。彼はそうしてほしいと最初の自己紹介で言いました。留年を隠そうとしませんでした。
 そんな松崎くんが隣の席になったのは、英会話の授業で教室を移動した際です。先生はアメリカ人のまだ若い男性で、やたらとテンションが高いです。他の授業とは違って楽しい雰囲気です。私も乗り切れない方ですが、松崎くんは絶望的な顔をしていました。こういうのが苦手なんだろうなあと思った矢先、先生が彼をアミーゴと呼びました。どこかの言葉で友達という意味です。乗れない彼を乗せようとしていることは誰にでも分かりました。それを松崎くんが嫌がっていることも分かりました。だから一部の男子が盛り上がり、アミーゴアミーゴと彼に何度も発言させようとしました。やはり文化が違うのか、先生もいい気になってアミーゴと呼び続けていました。松崎くんはぼそぼそと発言して、その場を取り繕っていましたが、騒がしい教室の中で、私はだんだん怒りがこみ上げてきて、何か言ってやらなければと思いました。全身に力が入りました。その次の瞬間です。信じられないことに“おなら”が出てしまったのです。しかも音が、とんでもない大きさでした。教室はしん・・・と静かになり、私は俯くばかりでした。すると、松崎くんが勢い良く立ち上がり、こう言ったのです。
「アイムソーリー」
 どっと笑いが起こり、アミーゴくせえぞアミーゴ最低だなと口々に、馬鹿騒ぎになりました。先生はおおアミーゴォと言いながら松崎くんを軽くハグしました。彼はそれを嫌がらず、照れ笑いを浮かべました。着席した後も、私の方を一瞥もしません。まるで自分が本当におならしたかのような振る舞いでした。そして、次の発言では、アイムアミーゴと名乗り、器の大きさを見せつけました。

 アミーゴと呼ばれて人気者になった松崎くんの話を祖母は黙って聞いていました。あれ?聞こえてないのかなと一瞬思いましたが、そりゃあいい男だと言ったので、ちゃんと聞こえていたようです。
「千代ちゃん、いいこと教えてあげようか」
 え、なになに?と、興味深く聞き始めたそれは、なんと音を出さずにおならをする方法、要するに“すかしっぺ”をする技の伝授でした。下品な話ですが、事実だとすれば聞いておかなければなりません。力の入れ具合が大事であると、身振りを交えて伝えてくれました。実例として、先日の健康講座でのことを語りました。私が付き添って行った時です。途中でおなら臭かっただろう?と訊かれました。それが理由で、もう行かなくなったのだと思っていましたが・・・
「実はあれ、おばあちゃんだよ」
 どうやら恥をかいた件は、別のようです。誰にも気づかれないすかしっぺをしたと思っているようです。たしかに素知らぬ顔をしていましたが、祖母はあの時、今日はお兄さんの声がえらく小さいなどと、ぼやいていたのです。私との会話も全く噛み合いませんでした。だから家に戻ると、補聴器の電池を換えてあげました。祖母がお風呂に入った時です。このことはわざわざ伝えるべきではないので、私の心にしまっておきました。


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