見出し画像

【小説】坊やを連れて


 改札を抜け、中央線の下り階段に差しかかった時、ママ!と呼び止められた。ぴったり後ろにいたはずの翼が、売店の前で大きく手招きをしている。歩み寄る前に腕時計をちらりと見た。
「これ買ってぇ」
 ねだられたグミキャンディは、毒々しい紫色のパッケージに入り、愛らしいイラストが子供をたぶらかすように添えられている。
「偉い子はね、こんなところで欲しがらないよ!」
「ぼくは偉くなくていいもん」
 視線を上げると、レジにいた女性店員と目があった。互いにマスクをしているけれど、どう見ても彼女はまだ若い。二十歳くらいだろうか。こんなところと思わず言ってしまったことを詫びる気持ちになった。しかも、自分でも驚くほど大きな声だった。レジには偶然誰も並んでいない。買ってあげようと思った。
「ありがとうございました」
 感じよくお礼を言ってくれた彼女に、こちらこそ、と穏やかに返した。そうして、翼の手を取り、やや急ぎ足でホームに降りた。
 新宿行きの特急列車にとりあえず乗り込むと、そこはグリーン車両で、窓側を中心にぱらぱらとスーツ姿の男性が座っていた。
「ここがいいぃ、ここぉ」
 翼は両脇に誰も座っていない場所で立ち止まった。車内に発車のアナウンスが流れる。
「ここは違うの」
「なんでぇ?」
「ここは偉い人が座る席」
 我ながら適当な説明だと思ったけれど、翼は妙に納得して、大人しく転ばないようについてきた。車窓をまたたく間に流れたこがね色は、もの静かな日差しに映える銀杏の葉っぱだ。

 八王子が迫ってくると、すやすや眠っている翼を起こした。終点ではないので、速やかに降りなければならない。
「ほら、ちゃんとマスクをつけて」
 五歳児にマスクをつけさせるかどうかで、昨夜はちょっとした夫婦喧嘩になった。夫の言い分どおり、マスクを日常的に、たとえば地元の公園で飛び回る際につけさせたら、弊害の方が大きい気がする。専門的な理屈は分からないけれど、なんとなく脳の成長に悪い。じゃあ都会に出た際も、地元のそれで良いかと言えば、絶対に違うと思う。周りの目もある。つけさせている方が無難だし、運動するわけではないから、私は良識ある親として、ご時世にあえて逆らうようなことをしない。
 降車してエレベーターを上がり、改札内のいわゆる駅ナカに出て、お上りさんらしくきょろきょろした。今年はあまり出掛けられず、列車に乗ったのも久しぶりだ。
「ママ、トイレ」
 今にも漏れそうな顔を向けられた。
「ほら、あそこにトイレあるから。一緒に行こうか?」
「やだ。一人で行く」
 最近は生意気ちゃんで、女子トイレに入ろうとしない。翼は男子トイレに一人で駆け込んだけれど、すぐにしょんぼりと出てきてしまった。
「ここで行かなきゃだめ。他にトイレないから」
 もじもじして俯いたので、その手をやや強引にひっぱり、女子トイレに入ると、中で並んでいた大学生らしき二人がこちらの様子を見た。
「どうぞ、お先に」
 もう一人もマスク越しに笑ってくれたと分かった。なんと最近の若者は素晴らしいのか。
「ありがとう。本当に助かります」
 そうして、先頭に並んで間もなく、私たち親子はことなきを得た。

 乗りかえた横浜線の普通列車は、側壁沿いに長椅子が向かいあっている。かろうじて座れたけれど、始発駅なのに混んでいた。誰もしゃべらず、しゃべってはいけない雰囲気で、皆が病人に見えた。まあ大抵、視線は閉じられているか、各々の手元に注がれているかで、彼らはスマホ中毒という病だから、当たらず遠からずと言ったところだろう。
「マスク取っていい?」
「だめ」
「いつ着くの?」
「まだ先」
 そっけない返事であまりしゃべらせないようにした。右隣にちょこんと座る翼は、ふてくされた顔で足を小さくばたつかせたり、体をゆすったりした。止めさせてもまた始まり、止めさせてもまた始まり、かまってちゃんがいつにも増していた。
 町田駅で乗客が大きく入れかわった。左隣にはアラブ系の外国人男性がどすんと座った。素顔を隠すような黒いマスクで、堀の深い目元が妙にぎらついている。獲物を狙う目つきとでも言おうか。なじみのない香りを纏い、膝の上で皮のバッグを大事そうに抱えている。チクタク、チクタクと、時計の音がやけに大きく聞こえてくる気がした。
 自爆テロ、という言葉が思い浮かんだ。もしかしたら爆弾かもしれない。
 ふと目に入ったのは、私の前に立つ女性がつけている丸いバッジだ。この咳はうつりません、とイラストつきで示されている。ひどい喘息持ちなのか、以前どこかで見かけたそれよりも、サイズが大きい。
 この時代、彼女はさぞや辛いだろう。
 爆弾を疑うのも、当然ながら偏見でしかないと、すぐに思い直して反省したけれど、なんとなく怖いという気持ちをぬぐえず、席を移動したくなった。降りる駅まで座れなくなったとしても。一人ならばそうする。今日は翼がいる。平穏無事をただ祈るしかなかった。

 それから二つ目の長津田駅で、喘息バッジをつけた女性が降り、奇麗な白髪頭の男性がすこし腰を曲げ乗ってきた。温厚そうな笑みを浮かべ、私の左斜め前に立った。席はすべて埋まっている。
「ほら、ママの膝に来なさい」
 翼を膝の上に乗せようとした時、アラブ系の男性がすっくと立ち上がった。
「わたし、つぎ、おりますから」
「おお、これはこれは。皆さんありがとうございます」
 拒む人もいると聞くけれど、その老紳士はすんなり厚意を受け入れた。
「どういたしまして」
 アラブ系の男性もまた、立派な紳士だ。彼はドア付近に移動して、次の十日市場駅で真っ先に降りた。皮のバッグは結局、なんの変哲もなかった。

 菊名駅に着くと、翼は喜びを爆発させるようにホームへ飛び降りた。偶然同じ駅で降りようとしていた老紳士に、私は軽く手を添えた。ホームとの隙間が怖いと言っていた母の話を思い出していた。
「ねえ、ママ!」
 翼がホーム上の自動販売機の前でぴょんぴょん飛び跳ねている。老紳士に会釈をして、ジュースをねだる方へ向かった。そうして、こんなに飲みきれないでしょう、ペットボトルにしなさいなどと、時間をかけて選んでいた。すると、他の降車客に遅れ、背後をさっと通過する人がいた。
 あの大きな後ろ姿は・・・
 アラブ系の紳士だった。五つ前の駅で降りたはずの彼が、ここまで来ている。
「すごく偉い人だったね」
 そう言って笑う翼は、すべて了解しているようだった。
「それが分かる翼くんも偉い子だよ」
「今日は偉い人たちにたくさん会った」
「じゃあ、ペットボトルのこれにしようね」
「いーやーだ。ぼくは偉くなくていいの」
 やれやれと、大袈裟に天を仰いで見せたけれど、本当は抱きしめてあげたい気持ちだった。小春日和の青は、汚れを払われたようにすっきりと凪いでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?