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【小説】転換期の告白


 幼時から私は、良く女の子に見間違えられた。さらさらした栗色の髪と色艶の良い肌は生まれながらで、稀に見る美男子だと持て囃されたけれど、学校生活における男女の切り分けに違和感を覚えた。ピンク、白、紫を好み、可愛らしい女の子の服を着てみたいと思った。腕白に外で遊ぼうとせず、ままごとに興じることが多かった。恋と呼べるのか分からないけれど、小学二年生の時、或る若い男の先生が好きだった。
 先天的に私の心は女なのか。実は疑念を抱いている。
 その好きだった先生に、性的な悪戯をされた。卑劣な口止めを守ってしまった。今も尚、おぞましい詳細を語ることはできない。わけが分からなかった当時でさえ、男という存在を強く恐れるようになった。体が男だから、あのような仕打ちを受けたと思い、男女曖昧だった私の心はひっそり女に定まった。

 思春期に差し掛かると、潔癖な視線を周囲に向けた。性的な欲求は悪でしかなかった。悪から生じる人とは何かを考え、女を悲劇的な存在として美化することで、世の辻褄を合わせようとした。
 そうして、私の周りは女友達ばかりになったけれど、彼女たちから嫌がらせを受けたり、陰口を叩かれたり、女の本質を知らされた。男よりも汚いと思うことさえあった。

 やがて不登校になり、中学生最後の一年間は、祖母の家に引きこもった。髭が生え始め、男らしく変わる自分の体が疎ましかった。逞しさを求める父とは反りが合わず、家に帰ろうとしなかった。ここが祐ちゃんの家だからね、と祖母は優しく言ってくれた。度々心配してやって来たのは、母と学校の先生だった。男だから警戒したけれど、彼は私の将来を親身に考え、進学できるように道筋を示してくれた。
 時間があり余っていたので、良くテレビを見て過ごすうちに、こう生きるべきだという憧れを見つけた。彼女は男だった過去を輝く個性に変え、テレビの中で活躍していた。後ろめたさは微塵も感じられなかった。
 いつか彼女のようになりたい。
 そんな夢を胸の内で抱き、十八での上京を目指した。高校は出ておくべきだと冷静に考えた。行く先に立ち込めていた重苦しい薄墨色が、すっきりと晴れる思いだった。

 けれど、高校卒業後の上京を家族から猛烈に反対された。味方だと思っていた祖母からも。進路として私が提示したのは、少し怪しげな芸能プロダクションだった。夏休みに半日だけ上京した際に道端でスカウトされた。勿論それは美男子として。ただ、私はそこでの活動を足がかりに、本当の自分に生まれ変われると信じた。華やかな世界に行ってみたかった。今振り返ると、家族の反対は無理もない。いや、当然だろう。
 家を飛び出した親不孝を謝罪できないまま年月は流れ・・・


 水商売で大金を稼ぎ、私は体も女になった。それから約四年の間、家族には伝えられずにいた。きっと察する点は色々あったはずだけれど、派手な化粧を施したこの姿を目の当たりにしたら、父は間違いなく鬼の形相で拒絶する。母は泣き崩れるかもしれない。意を決して伝えるとしたら、まずは祖母だと思った。亡くなっている可能性などを全く想定せずに。
 時は平成最後の春だった。二ヶ月後に変わるのは元号という名前であり、その実態は特に何も変わらないのだけれど、平成しか知らない私は、不思議とやり残したことを意識した。独り住まいの家に帰ると、テレビを無駄に見てしまうせいで、思考が知らず知らず世俗的になり、新時代への商業的な祝賀ムードに乗せられたとも言える。きっかけは大抵、些細なことだ。こり固まった胸のつかえを下ろすには、今が好機だと思った。
 心理的な距離に反して、故郷は地理的にさほど遠くない。東京駅から東海道新幹線に乗り、最短約一時間で静岡駅に着く。車窓のハイライトは、三島駅を通過した辺りだ。茶畑に遮られた視界が開けると、富士山を大きく望める。天気の良い日は車内に感嘆の声が漏れる。

 私の帰郷した日は生憎の曇天だった。静岡駅からタクシーを使い、強面の運転手に行き先を告げた。祖母の一軒家の住所だ。交通事情にもよるけれど、まあ三十分はかからない。都市部は全国どこも画一化された景色で、故郷という実感がわかなかった。
 手鏡をかざすと、映ったのは祖母の知る祐ちゃんではない。祖母の言葉を思い出した。祐ちゃん、いつでも彼女を連れておいで。祖母は祐ちゃんの彼女、ひいては素敵なお嫁さんに、いつか会えると心から信じていた。もう叶えてあげることはできず、目頭がきゅっと熱くなった。
 住宅街を低速で走り、懐かしい祖母の家が見えてくると、ここでいいのかい?と運転手に声をかけられた。
「はい。ここです」
 タクシーを降り、玄関前の呼び鈴を押したけれど、家の中はしんと静まっている様子だった。小さな庭はしばらく放置されたように荒れていた。タクシーが停まったまま離れず、何かあったのだろうかと、そちらを気にかけた。勿論お金は支払い済みで、忘れがちな手土産の紙袋もきちんと持っていた。
「お節介かもしれないが、ここの奥さん去年から入院しているよ」
「え?・・・どこの病院か知っていますか?」
「お姉さんは、どういうお知り合いだい?」
「孫にあたります」
 間違いではないその言い方は、ぼやかす意図があった気がする。
「ああ、お孫さん・・・」
 運転手はそう言うと、私の顔をしげしげと見た。かつて会った人だろうかと記憶を辿ったけれど、心当たりはなかった。
「乗りな。連れて行くよ」
 私は余計なことを訊かず、ただ小さく頭を下げた。

 古びた個人病院の玄関先には、奥行きの短い細長い花壇があった。小奇麗に整えられ、ビオラが色彩豊かに咲いていた。
 院内に入ると、淀んだ重苦しい空気に一瞬吐き気を覚えた。病院特有の匂いは、消毒液のそれと、何かが複雑に混ざり合っていた。診察待ちの患者が朦朧と漂わせる視線は、私を捉えてはいなかった。受付で祖母のことを尋ねると、たしかにここで入院していると知らされた。
 孫を名乗らなかったのは、どのような病状か分からない祖母を気遣ってのことだ。追い打ちをかけるように、今この姿を見せるべきではないと思った。大きなショックになるだろうから。けれど、時期を改め回復を待ったところで、そうなる保証はない。祖母の死を始めて意識した。今すぐに会う必要があった。
 祐ちゃんの彼女として。
 私は祐ちゃんの代わりに会おうと思った。騙しになるけれど、祖母の願いを叶えてあげたい気持ちもあった。素敵な彼女だと言われたかった。
 二階の病室に入る直前、また手鏡を開いた。呟いたのは魔法の言葉だ。私は可愛い。胸を張り、静かに歩み寄ったのは、カーテンで仕切られた三つの病床の一番奥だ。
「はじめまして。私は祐一くんの彼女で、すみれと言います」
 薄青い病衣を着た祖母は、髪も体もひどく痩せ衰え、腰から下を掛布団で覆っていた。
「祐ちゃんの、彼女さん?」
 それは絞り出したような声だった。私が深く頷くと、落ちくぼんだ目を輝かせた。
「やや!なんということ。よくぞお出でくださいました。このような所で申し訳ない限りです」
 そう言って横たわる体を起こそうとしたけれど、ままならない様子だった。
「無理しないでください。そのまままで大丈夫ですよ」
「ああ情けない。祐ちゃんの彼女さんにお茶もお出しできないなんて」
「そんなことないですよ。今日はお会いできて本当に嬉しいです」
「もちろん私も。まさか会えるなんて思わなかったから」
 私はぐっと涙を堪え、差し出された手を握った。握り返してくる力を感じられなかった。
 ベッドの脇にあった椅子に座り、それから約四十分、祐ちゃんの話をした。祖母は昔のことを良く覚えていて、いかに祐ちゃんが可愛かったかを弱々しくも力説したので、私は今の祐ちゃんをあまり創作せずに済んだ。
 別れ際、私のことを祐ちゃんのご両親にはまだ秘密にしてほしい、とお願いした。祖母は了承した上で、あなたは祐ちゃんにぴったり、お伝えすれば必ず喜んでくれますよ、と言ってくれた。


 翌月、私は再度祖母の元へ向かった。月に一度は顔を出そうとしていた。春霞が車窓の富士山をぼやかしたけれど、様々な憶測を立てられた新元号は、数日前、はっきりと令和に決まった。その音の響きは、先進的かつ女性的に感じられた。
 私のような者も受け入れられる時代が来るのではないか。
 不思議と世相も明るくなっている気がした。乗客の中には、恥ずかしげもなく、令和の文字が大きくプリントされたシャツを着ている者がいた。新元号で盛り上がっている時にしか着られない、消費期限の短いシャツだ。
 静岡駅の南口でタクシーに乗り、運転手が女だったので、珍しいですね、と声をかけた。ふくよかな体を黒い制服に押し込んだ、肝っ玉のお母さんという見た目の彼女は、白い手袋を付けた両手でしっかりハンドルを握り、最近はそうでもないですよ、と答えた。この仕事を始めて三年とのことで、日焼けが悩みだと語った。
 病院に着くと、看護師に面会の許可を取り、祖母のいる二階の病室に入った。雨模様の以前とは異なり、南向きの窓がカーテン越しに明るく、室内の印象が良かった。
「こんにちは。お元気ですか?」
 仰向けに寝ている祖母は、はっと驚き、何か言いたそうに私と目を合わせた。きっと名前が出てこないのだろうと思った。
「祐一くんの彼女のすみれです」
「祐ちゃんの、彼女さん?」
 私は異変に気づいた。僅か一か月で、すっかり忘れられていると。
「わざわざお越し下さり、本当に有難うございます。まさか祐ちゃんの彼女さんにお会いできるなんて。このような身になりましても、長生きすれば良いことがありますね」
 そうして、祖母はお茶をお出しできないと悔しがり、前回とほぼ同じ内容の思い出話を始めた。それでどうなったと思いますか、と楽しそうに問いかけることもあった。笑うところで私は笑えず、また同じように笑う祖母に、唖然としてしまった。
 振り返ると、前回も同じことを二度言ったり、祐ちゃんはなぜ来ないのか訊かなかったり、おかしな点が幾つかあった。特別な事情がなければ、彼女一人で見舞いに来るはずがない。祖母の記憶に残っているのは、遠い過去ばかりだ。今から私が何を話しても、祐ちゃんの彼女を演じても、しばらくしたら忘れられてしまい、この思い出を互いに共有できず・・・
 その虚しさを悟った時、私は涙をこぼした。長らく帰郷しなかった罪を深く感じた。
「あら?ごめんなさい。何か気に障ることを言ってしまったのね」
「いえ、違います。目にゴミが入ってしまって」
 次回は一ヶ月後ではなく、もっと早く来ようと思った。
 

 三度目は四月下旬だった。前日の夜、憧れ続けてきた人が久方振りにテレビに出ているのを見て、私はまだ足元にも及ばないと感じると共に、もう一歩踏み出す勇気をもらった。恥ずべきは、女になった体ではない。
 或る友人はこう言った。家族をあえて悲しませないのは優しさじゃないかな。
 私はその言葉を胸の内で誤用、或いは悪用してきた。もしかすると、ひどく悲しませても祖母の記憶に残らないことで、言いやすくなったのかもしれないけれど、忘れられるから嘘をついても良いのではなく、むしろ誠実に、真を伝えなければならないと思った。
 雲間から日が差したのは、熱海と三島の両駅を繋ぐトンネルを抜けた時だ。

「こんにちは。すみれです」
 忘れられていることを前提にせず、まずはそう名乗ると、祖母は体を横たえたまま目を見開いた。
「すみれ、さん?」
 私はじっと見交わして頷かなかった。祖母はやはり覚えていないようで、何か言葉を選んでいる様子だった。
「私が誰か、分かりますか?」
 僅かな沈黙の後、祖母はにこりと笑った。
「祐ちゃんだね?」
 私は息を呑んだ。身震いを覚えた。祖母は前回も、前々回も、祐ちゃん自身だと気づいた上で、私に合わせていたのだろう。
「お婆ちゃんな、最近自分でも、おかしくなってきたなあ・・・って分かるけど、祐ちゃんを忘れることはないよ。可愛い可愛い祐ちゃんを、死ぬまで絶対に忘れないよ」
 私は祖母の皺ばんだ手を握り、涙で化粧を台無しにした。
「お婆ちゃん、ごめんね。私、女になった」
「何を謝ることがあるか。男だろうと女だろうと、可愛い祐ちゃんは何も変わらん。ほら、顔を上げてご覧」
 小さく照れ笑いを浮かべた私の頬に、祖母の指先が触れた。
「おお、可愛い。今も昔も。お婆ちゃんの大切な祐ちゃん。会いに来てくれたんだね。有難う。ずっと待っていたよ」
 私は声を詰まらせ泣きながら、この後すぐ実家に帰ろうと決めた。

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