見出し画像

【小説】道楽サンタのいない家


「大変申し訳ないんだけど、真白を少し預かってほしい」
 紅を差した口元がそう言い残して、妹は行方を晦ました。悪趣味な毛皮のコートを着て、足元は赤いハイヒールだった。からりと晴れた十一月二十三日のことで、音信不通のまま、もうじき一ヶ月になる。実に嘆かわしい理由に違いなく、恐らく新しい男ができたのだ。何か事件に巻き込まれたとしても自業自得に他ならない。誰が同情するものか。野垂れ死んでしまえ。
 けれど、真白のことを考えると、どうにか改心して、良き母親に生まれ変わってほしいと願う。

「お母さんはね、すごく頑張ってるの」
 真白は決して母親を悪く言わない。きちんと食事を与えられているのか疑わしいほど痩せていて、小学三年生にしては妙に大人っぽく、あれこれ出来すぎている。周囲に愛嬌よく振る舞い、愛情をねだるような笑い方が、親の罪深さを示している。

「あのね真白ちゃん、つまらない時はつまらない顔をしていいんだよ」
「ううん。そんなことない。お姉ちゃんといると、いつも楽しいよ」
 そういう言葉を聞くたびに、私はいたたまれない気持ちになる。

 我が家に預けられたあの日、真白は体のわりに大きなリュックサックを背負い、折り畳んだ五千円札を握りしめていた。握らせた本人に、何のつもりだったのかを問いただしたい。二三日預けるつもりだったならば、食費として十分な額だけれど、私は初めからそれに手をつけず、封筒に入れ取ってある。例え五万、いや五十万だとしても、金で解決すべきことではない。金を払い押しつけたような扱いにさせてはならない。あくまでも私は、そして主人は、真白が可愛いから預かったのだ。

 主人のジェイコブは、古式ゆかしい日本をこよなく愛する。というより、狂気に似た情熱だ。二十歳から寝食惜しんで身につけたらしい国語力は、生まれながらの日本人のそれより数段上で、漢文調の文体もたやすく読みこなす。平時から和服を着て、洋食を出されると少し不機嫌になる。なんとしても純和風の家に住みたいという、婚前からの夢は、三年前に購入した古民家を改装することで実現した。近所のわずらわしい行事にも積極的に参加して、年配者からもコブさんと呼ばれ慕われている。そして、公の場では私のことを家内と呼び、私には主人と呼ばせる。当初私は反発したけれど・・・
「僕が偉そうにしたいから言っているのではありません。もちろん夫婦は対等の関係です。外では女性が一歩引いて見せた方が、美しいということです」
 白みがかった煤竹色の居間には囲炉裏があり、冬になると、私たちは火を囲んで会話を愉しむ。

 そんな生活にクリスマスは無縁だけれど、真白を連れ買い物に行った際、暮れ方の街は浮足立ったように華やいでいた。目につくのは、お決まりの赤白緑の三色だ。
「真白ちゃんはクリスマスするの?」
 ケーキを食べたり飾りつけをしたりするかを訊くために、あえてクリスマスを動詞として使った。駅前の広場で何かに気を取られていた真白は、え?と首を傾げた。
「毎年クリスマスする?」
「しなーい。あまり好きじゃないの」
 気を遣っていると分かった。
「でも今年は、大きな丸いケーキを買って食べようね」
 こくりと頷いたけれど、珍しく気乗りしないような顔をした。
「どんなケーキが好き?」
「・・・お姉ちゃん、私は生クリームが苦手」
 初めて本音を言ってくれた気がして、私は笑みをこぼした。
「じゃあ何が好き?」
「生クリーム以外なら・・・何でも好き」
「何でもは駄目。選べなくて困るでしょ?」
 まじまじと私の顔を見たので、何を言っても怒らないよ、と表情で伝えた。
「黒い羊羹」
「へ?羊羹が好きなの?」
 目をきらりと輝かせ頷いた。子どもらしくない好みだけれど、我が家に誂え向きの甘味物で、ジェイコブも喜ぶと思った。そして、真白がたどたどしく説明を加えた、普通の、余計なものが入ってない、というそれは、要するにシンプルな練り羊羹だ。過去に蒸し羊羹を買ってこられたなどの、苦い経験があるのだろう。

 晩御飯の後、早速その話をジェイコブに伝えると、彼は自身の小さく割れた顎を撫でながら思案に耽り・・・
 書斎から薄い文庫本を持ち出してきて、電気スタンドの下で書き物をしている真白の側に鬱陶しく座った。
「なーに?」
 穏やかな口調の真白はにこっとした。
「真白さん、陰翳礼讃という書物を知っていますか?」
 知っているわけがないけれど、恐らくジェイコブもそれを承知の上だ。早く教えたくて、うずうずしている様子だ。
「聞いたことない名前。面白いの?」
「はい。とても面白いですし、日本の美とは何か、丁寧に書き記されています。文豪、谷崎潤一郎です」
 彼は手にしていた本をぱらぱらと捲り、その手が止まると、真白の顔を見た。読むよ、という静かな合図だ。

――かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う――
 
 外国人訛りの発音だけは、どうしても上達しないのだけれど、ジェイコブは朗々とつっかえずに読み上げた。空で言えそうだった。珠玉の名文だと、さっぱり分からなかったはずの真白は、おー、と声を上げ、軽快に手を打ち鳴らした。
「真白ちゃんごめんね。難しいよね」
 後ろから声をかけ頭を撫でると、真白は首を横に振った。
「ううん。難しいけど面白いよ。それにね、勉強になる」
 そう言うと、ジェイコブが読み上げたページに目を落として、漢字の読み方をあれこれ訊いた。傍から見れば、日本人の女の子に西洋人が日本語を教えていることになり、微笑ましいけれど、私は真白との生活に不安を覚えている。私たち夫婦はこの子の親ではない。親代わりになる覚悟も固まってはいない。ジェイコブにとっては他人の子どもで、図々しく私から親になろうとはお願いできない。

 なぜ私たちには子どもができないのか。この生活がいつまで続くのか。結婚もせずに出産した妹を、実は心の隅で妬ましく、そして恨めしく思っている。真白を見ていると、可愛いだけではなく、正直辛い気持ちになってしまうことがある。
 あんな酷い母親ではなく、なぜ私の子どもとして生まれてこなかったの? 人生とは実にままならない。

「お姉ちゃんはいいよね。ジェイコブと結婚して、金持ちになって、悠々自適な生活じゃない」
 かつて妹はそう言い放ったけれど、ジェイコブと結婚するまでの過程には、私なりの努力があった。それを怠ってきた者に、まるで宝くじに当たったようなことを言われたくない。学生時代は妹の方が可愛いと度々言われ、激しく傷ついたけれど、今では成長の糧になったと感謝している。

 真白も良く勉強をする。リュックサックに入れてきた数冊の教科書には、優等生らしい書き込みが幾つもあった。
「自分できちんとお勉強できて、真白ちゃんは本当にすごい子だね」
「すごくないよ。だから勉強するの。私は勉強で頑張るしかないんだよ」
 なぜこの子は私に似ているのだろう。一重瞼に、低い鼻の形まで。
 通っていた小学校は送り迎えできない距離にあるので、長い冬休みのような、自主勉強の期間になっていた。真白の担任の教師とは、電話で少し話をしたけれど、なんて嫌な人、という印象のおば様だ。更年期も影響しているのか、真白の件で苛ついていると分かった。
 来年になったら、歩いて通える学校へ転校させるべきか。真白は次第に母親の話をしなくなった。

 預けられてからちょうど一か月の朝は、冬枯れた庭一面に霜が降り、今季一番の冷え込みになった。板の間をちょこちょこ動き回る真白は、鼻の周りを赤くして、新調した臙脂色のはんてんを着せられ、いかにも古風な女の子だ。
 真白さん、と呼びかけたジェイコブは、唐突にサンタクロースを知っているか訊いた。我が家に無縁だったクリスマスは、いよいよ明後日だ。
「うん。毎年来てくれるよ」
「やはりそうでしたか。ですが今年、真白さんは別の家にいますので、そのことをサンタクロースにお伝えする必要があります」
「どうやって?」
「僕はサンタクロースにメッセージを送れるのです」
 そう言って動かした右手の指は、パソコンを打つような仕草だ。真白は喜ぶでも訝るでもなく、真剣な顔をしている。出自の異なる青い目のジェイコブには、説得力があるのかもしれない。
「サンタクロースに手紙を書いてみませんか?」
 彼はクリスマス仕様の子どもっぽい便箋を差し出した。
「手紙・・・欲しいものとか?」
「そうです。ただし手紙のまま送れませんので、僕がまず読むことになります。それで良ければ今日中に書いてください。いずれにしても、真白さんがこの家にいることは、必ずお伝えします」
 真白は心底嬉しそうに笑った。妹は子どもの夢を壊さずに、どうやら毎年、きちんとプレゼントを用意していたようだ。もしかすると一年に一回だけ、親らしいことをするのかもしれない。
 そういえばサンタクロースも、クリスマスしか働かない道楽者だ。

 ジェイコブが真白から一葉の手紙を渡された夜、彼は寝室で私に呟いた。僕たちはサンタクロースになれませんと。働き者だと言いたいのではなく、要するに真白が希望する物を用意できないということだ。隣の部屋からは、真白の寝息が微かに聞こえてきた。
「何が書いてあったの?」
 ささやくような声で訊いたけれど、ジェイコブはため息をつき、教えてくれなかった。

 それでも彼が何かプレゼントを用意するだろうと考え、二十四日の午後、私が特別に買ってきたのは高級な練り羊羹だ。その食べ方というか、しつらえ方というか、陰翳礼讃に準えた最上の暗がりは、勿論ジェイコブがこだわりをもって演出する。
 てっきり明日の夜だと思っていたけれど、私が晩御飯をこしらえているうちに、昔ながらの燭台を三つ探し出してきて、――肌の色が辛うじて見分けられる暗がり――は、火を落とした囲炉裏の横に立ち現れていた。
「クリスマスは明日だよ?」
「僕の故郷では、前夜祭が盛り上がるのです」
 そして、私たちは晩御飯と共に暗がりを味わった。蝋燭の火が儚げに揺れ、部屋の四隅は深い陰だ。平時から灯りの乏しい家だけれど、とりわけ暗い中での前夜祭だ。
「美は陰翳のあや、明暗に宿るのです」
「どういう意味?」
 かの文豪の美意識に基づいたジェイコブの話を、真白は興味深そうに聞いていた。改めて納得のいく内容で、やはり生活というのは、明るすぎてはいけない。恐らく人生も同様だ。真白にとって、ここに預けられている暗がりは、人生を美しく彩る経験の一つだ。私はそう信じている。
 切り分けた羊羹は、漆塗りの器に乗せた。まずは暗がりとの調和を目で愉しんだ。ジェイコブはうっとりと、もはや私に向けなくなった視線だ。
「さあ、食べてみましょうか」
 竹の菓子切りで控えめに切り取ったそれを、三人同時、息を合わせ口に運んだ。
「美味しい」
 声を発したのは真白で、私は同調したけれど、ジェイコブは恍惚の表情で目を閉じた。
 私が真っ先に食べ終わると、真白は取り分けたうちの半分ほどを残して、何やら手を合わせていた。神に祈るような仕草なので、どこかで誤解したクリスマスの儀式かと思ったけれど・・・
「サンタさんが会いに来てくれますように」
 そう言うと、合わせた手を解き、幼い顔を上げた。私は安心させようと微笑みかけた。
「大丈夫。サンタさんは来るよ」
「だからね、これはサンタさんのために取っておくの」
 羊羹はまだ台所に残っているけれど、真白の優しさを大切にしたいので、それを今言わない方が良いと思った。
「サンタさん、プレゼントはいりません。会いに来てくれるだけでいいです。美味しい羊羹があります。どうか食べに来てください」
 顔を伏せたジェイコブを見ると、どうやら声を立てずに泣いていた。日本男児失格だぞと、言ってやりたかった。あの手紙にも同じことが書いてあったに違いない。真白は母親がサンタクロースだと知っている。それを待っている。無邪気なふりをして、なんて悲しい願いだろう。
「真白ちゃん、サンタさんは来る。今夜ではないかもしれないけれど、必ず来るよ。一緒に待っていようね」
 真白は大きく頷き、今夜は一緒に寝たいと言った。拒む理由は何もない。愛おしいこの子と共に、最低の道楽者を待ち続ける。
 私はサンタクロースにも母親にもなれない。この暗がりが後に訪れる光を際立たせ、人生に美をもたらすはずだ。真白に出会えて良かった。皮肉ではなく、妹にそう伝えよう。まずは思いっ切り、頬を平手打ちすることになるけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?