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【小説】ハイドランジアの恋

 君の真面目さが俺には眩しい。白く清潔に輝いている。だから少しばかり汚してみたくなった。からかってみたくなった。もう一年ほど前になる。飲むことも、打つことも、買うこともしない君を、夜の街に誘い出したのは。
 俺の行きつけの一つ、ハイドランジアという店名を聞いて、君は「おしゃれですね」と興味を示した。実は勢いに任せてもっと過激な(詳細は伏せる)、別の店に連れてゆくつもりだったから、君自身があの店を選んだと言って良い。
 あの夜は夏の雨上がりだった。紫陽花の写真が転写されたネオンの看板は濡れていた。ハイドランジアはギリシャ語で“水の器”という意味だと君に教わった。水の器の水商売。店名の由来を誰にも聞いたことがないので、それが正しいのか分からないが、そう解釈する君の発想はおしゃれだと思った。
 店内に入ってからの君は、なんでこんなところに来てしまったのかと言いたげに、ひどく沈んだ顔をしていた。人気のある子を代わる代わる付けてあげたのだが、目も合わせず下ばかり、ドレスから覗く太ももばかり見ている感じだった。俺がエロい視線だとからかうと、赤面するどころか血の気のない青ざめた顔のまま、うっすらと冷笑を返してきた。だから途中から、酒が回ってきたせいもあり、君をなおざりにして楽しんだ。トイレに立ったままの君をすっかり忘れている時間もあった。そして、あれ?と思い出した時、立ち上がり店内を見回した。お連れ様はあちらと指し示された方で、君はつかさちゃんと話し込んでいた。何やら楽しそうに笑顔を見せていた。目を細める俺の視線に気づいた君は、妙に慌てて恥ずかしそうにしていたね。さながら初めてのデートを知り合いに見つかったかのように。かわいい奴だと思い、そっとしておいた。それ以降の記憶はない。久しぶりに酔いつぶれた。家まで運んでくれた君には今でも感謝している。妻にこっぴどく怒られたよ。
 恋は泡沫の水商売だ。疑似恋愛という言い方もあるが、俺は本気で恋をしたら良いと思う。無論お互いに。プロ中のプロは、本気で客に恋をする。ただし、それは龍宮城において。源氏名で対する仮初の姿において。ホステスを乙姫に例えれば、客は浦島太郎だ。現実に帰り、貰った玉手箱を開けてはならない。要するに、乙姫の秘密を知ってはならない。別世界で楽しんだ恋として終わらせなければならない。別世界だからこそ、私は妻に許してもらえる。現実を生きてゆくための潤いになる。龍宮城の水に溺れてしまうような者は、始めから足を踏み入れるべきではなく・・・
 数か月後に、君が一人であの店に通っていると知った時、俺は嫌な予感がした。悪ふざけで亀になった身として。全く免疫のない真面目な君を連れて行くべきではなかったかと。
 案の定、君はつかさちゃんに熱を上げていた。少しずつ酒を飲むようになり(意外に飲めるそうだね)、別世界だと明らかに割り切れていなかった。それで泣くことになるのも勉強かもしれないが、俺は気が気ではなかった。責任を感じていた。つかさちゃんだから、というのもある。プロらしいホステスであれば、上手に泣かせてあげられる。泡沫の恋だと教えてあげられる。それがつかさちゃんでは期待できなかった。彼女は長く水商売を続けられる性格ではない。なぜそう言えるのかというと、ずっと君には黙っていたが、以前俺は彼女を度々指名して共に酒を飲んだ。色んな話をした。すごく良い子で、どこか影のある見た目通り、不幸を背負っている。だから心配だった。なんとなく相思相愛になる気がして、大袈裟に言えば、二人で心中しかねないと。
 きっとつかさちゃんは不幸を演じてはいない。それを作為的に匂わせてもいない。身の上話は極少数の人にしか話していないようだった。その一人がなぜ俺だったのかは不明だ。何か特別な関係にはなっていないと言い添える。出は東北だと聞いたが、その詳しい場所も本名も知らない。彼女ばかりを指名せず、他の子と同様に、ホステスだと割り切っていた。こちらから根掘り葉掘り訊かなかった。少しばかり、人気のない彼女に金を落としてやりたかった。恋というより、仄かな憐憫だ。強くそう思ったりはしない。不幸を背負ったホステスなど数多いる。
 のめり込んではいけないと忠告した時、君は純粋な思いを語ったね。彼女の生き様を肯定した上で、同情が愛情に変わってのことではないと否定した。語り口はたどたどしかったが、ぞっと寒気がするほど、その目に偽りはなかった。俺が言うことなど分かっていると暗示していた。
 あの後、君が行けない日を狙い、俺はつかさちゃんに会った。微笑んで「ご指名ありがとうございます」とは言ったが、久しぶりだと喜ぶこともなく、相も変わらず媚びなかった。覚えていないのか冗談っぽく訊いてみると、君の上司だと知っていた。君に内緒で来たと察していた。そして、「人の恋路を邪魔するのは野暮ですよ」と彼女は静かに言った。「ご心配なさらず」と付け加えた。
 やはりそうか、彼女も君を好きなのだと思った。驚くことはない。君は誰が見ても魅力的な男だ。将来も有望だ。正直、つかさちゃんではもったいない。こんなことを言うべきではないが、彼女の不幸を君が共に背負うべきではない。損得勘定すれば、大きな損になる。何かにつけて君の足枷になる。周囲は君が騙されたと言うだろう。つかさちゃんも辛い思いをするだろう。彼女が足を洗っても、君とは住む世界が違う。仮に結婚となれば、必ず反対される。悲しいかな、世の中とはそういうものだ。醜い差別がある。純粋であればあるほど傷つく。
 盛者必衰も世の常だ。とはいえ、未知のウイルスに対する脅威が、或いはそれを用いた巨悪な陰謀が、社会を大きく変えてしまうなどと、一庶民の誰が予想できただろう。自粛せよの矛先は、鋭く夜の街に向けられた。俺ですら夜遊びしなくなった。ネオンの光がぽつりぽつりと消えてゆき、多くの店が休業や廃業に追い込まれた。竜宮城がずるりと海底へ沈んでゆくかのように。
 あの店、ハイドランジアは“散る”と表現したそうだね。潔くも、無念が滲む。実際の紫陽花は散ることも落ちることもなく、しがみついたまま枯れるが、それを選ばず、自ら終わりを定めて散ったのだろう。その頃、周辺の紫陽花はちょうど見頃を迎えていた。
 連絡先を交換して、数日後に会う約束をして、つかさちゃんがなぜ君を裏切るようなことをしたのか、言うまでもないだろう。未練がましく探してはならない。悲しみを生きる力に変えなければならない。彼女もきっと同じだ。君を騙すつもりならば、自ら去りはしない。絶対に君と繋がっていた方が良い。別の店でホステスを続けるか否かに関わらず。いくらでも金を取れる。取りつくした後で去ることもできる。彼女はそれを選ばなかった。純粋に君と向き合い、恋を終わらせた。しがみつかなかった。嫌いになってくれよと、そういうことだ。彼女の精いっぱいの優しさと、決意を、どうか受け入れてあげてほしい。
 また今度、ゆっくり話をしよう。酒を酌み交わして。人生に失恋はつきものだ。


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