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悲鳴なのかもしれない

人はそれぞれいろんなことを思ったり、考えたり、話したり、します。

それには必ず一つ一つに意味があって、その人にとって必要だからそうしているはずです。

noteを書くようになってからいろんな人の思いに触れて沢山の勉強をさせていただいていると思うことばかりです。

その時に思いもしないような批判的なことを言われてしまうことがあります。

そのことを言った人にしてみれば当然のこととしてそれを発言されているのだと思います。

けれども言われてしまった方は、たぶん私だけではなく、ほとんどの人が戸惑うと思います。

そして何かを発言するということするということは、どんなふうにしたとしても反対の意見は必ずあるはずです。

それでも自分の思いというものを書いて行こうと思ったら、そういう意見があることがわかっていてもそれを書き続けていくしかありません。

そしてきっと、反対の意見を発言する人達にはそれを言わないとならなくなってしまうような理由が必ずあるはずです。

私自身も本当に大変な状況にいた時は人に批判をぶつけることはありませんでしたがほかの人を受け入れる余裕というものが著しく少なくなって、とにかく毎日をやり過ごすことだけでいっぱいいっぱいでした。

今もある意味そういう状況にいるままです。

だから、きっと、批判しなくては自分の心が守れないような気持になってしまう人はとても辛い状況を受け入れるしかなくて苦しんでいる人なのではないのかな?と思う時がありました。

だからと言って誰かを攻撃したり、批判したりしてもいいとは思いません。

けれども苦しくてたまらない時に表面上だけでも幸せそうな人を見るのはとてもつらいと思います。

だから批判や何かそういうものというのは苦しんでいる人たちの悲鳴なのではないかと思うようになりました。

その人たちの苦しみを私にはどうすることもできません。

怒りの気持ちややりきれなさを消してしまうことなんてできません。

私にもそういうものはたくさんあります。

そのことで苦しむことも多分死ぬまであると思います。

それを避けて生きていくことはきっと誰にもできないはずです。

だからこそ文章で思いや何かを書いていくことになるのだと思うのですが、その悲鳴を聞いた時、どんなふうにしたらいいのかずっと考えています。

もしも思うところがある方がいらっしゃったらコメントを頂けると嬉しいと思います。

そして悲鳴ではなくてもっと自分を大切にできるようなことでつながり合っていける人たちと出会うことができたら嬉しいと思います。

どんな人でも誰かに怒りや苛立ちをぶつけられ続けたら苦しいと思います。

そしてそのことで批判をぶつけた人たちの苦しみがなくなるわけではありません。 心の底では塩水を飲んでしまったあとのようにもっともっと批判したくなるような気持ちが増えていくだけのような気もします。

書いている時の不安も孤独も私にはずっとあります。

そしてなんの結果も出てはいません。

ただ毎日書いているだけです。

それを肯定してくれる人は周りにいません。

でも書くことが好きだからやめることはできなくて他に何か楽しいことがあるというわけでもないです。

うらやましがられるようなことは自分では思いつかなくて、強い風にビュンビュン吹かれて混乱しているということしか自覚できていません。

私自身、自分がこういう立場になってみるまでは全然わかっていませんでした。 きっと全然違うことを思っていたと思います。 だから仕方がないとは思いますが、みんなの悲鳴を批判に変えて全部を一度にぶつけられたら壊れてしまうと思います。

どうしてこんなふうになってしまったのか、今も正直わかりません。

教えてくれる人がいるならほんとうに聞いてみたいと思います。

そして、やっぱりジタバタとしながらもまた何かnoteに書いていってしまうような気がしています。

もしよろしければ読んでみていただけると本当に嬉しいです。


ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

よかったらコメントを頂けると嬉しいです。




ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。